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周辺の歴史 その11
11 宇都宮氏の改易と上三川・多功氏
○天正10年代に入り、小田原北条氏による下野侵攻は、いよいよ激しさをましていきました。しかし、同じころ畿内で急速に台頭、全国の有力大名を次々と従えていった羽柴(豊臣)秀吉が北条氏と対立しました。そして天正18年(1590)、秀吉は北条氏を討つために出陣し、この時関東・東北の多くの大名たちは秀吉に従いました。下野の宇都宮氏もそのうちの一人です。
○当主宇都宮国綱は、同盟者である常陸の佐竹義宣(よしのぶ)とともに、小田原付近まで来た秀吉と面会していますが、この時、宇都宮一族で家臣の上三川氏、多功氏も従い、秀吉に対しそれぞれ馬一頭を献上しています。
○ところで上三川城は、一般には室町時代前期から宇都宮一族横田氏の分家である今泉氏が城主となったとされています。しかし、信頼できる古文書によれば、天正18年当時の上三川城主は「上三川左衛門督」であり、今泉氏はこのころ宇都宮国綱の側近として活動しているのです。
○天下統一を成し遂げた秀吉に従う大名として再出発した宇都宮国綱は、これを機に領内諸城主の人事を刷新しました。上三川氏はこの時、今泉氏と城主を交替させられた可能性があります。
○慶長2年(1597)10月、宇都宮氏は秀吉から突如改易されます。これにともない上三川氏、多功氏は、他の一族・家臣とともに没落しました。この後、上三川氏については不明ですが、今泉氏の一部は横田郷兵庫塚(宇都宮市)に逃げ、そこで農民になったとの伝承があり、また多功氏は伊予国(愛媛県)今治城主松平氏に仕えたようです。
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