周辺の歴史 その17

17 日産栃木工場と上三川町-その1-
 
○昭和30年(1955)、合併によって新上三川町が発足した時点では、その人口は約19000人(ちなみに現在は約31000人)でした。このころ日本は高度成長期に入り、人口の都市への集中が進んでいました。上三川町でも勤労青少年の転出者がふえ、それにともなって毎年人口は減少し、昭和43年(1968)には約17000人あまりにまで落ち込んだのです。いわゆる過疎化の傾向が強まっていました。

 

○ところが同じ年に、上三川町にとって画期的なできごとがありました。日産栃木工場が町内で操業を開始したのです。

 

○日産自動車は、昭和8年(1933)に設立された日本を代表する自動車会社の1つで、その技術力の高さから「技術の日産」として親しまれてきました。生産台数は昭和40年3月には月間35000台、翌年3月には44000台、さらに43年12月には10万台とする計画がたてられました。

                                    
○一方このころの栃木県は、広大な平野と水利に恵まれてはいましたが、やはり人口流出が激しく、工業化による農業県からの脱却を図るため、積極的に企業誘致を進めていました。

 

○日産は、昭和40年(1965)ごろには、座間、追浜、横浜(以上神奈川県)、吉原(静岡県)の4工場体制の確立と拡充を急いでいましたが、上記のようなさらなる生産能力の増強を図るため、新工場の建設が必要となっていました。既に昭和39年には上三川町内に現在の栃木工場用地を取得し、43年3月に起工式が行われました。これは本県初の大企業進出でした。