栃木県立小山高等学校
~小山高校は2018年に創立100周年を迎えました~
〒323-0028 栃木県小山市若木町2-8-51 TEL 0285-22-0236
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お互いにリスペクトし合おう!!
「校長室より」のページから、生徒の皆さんへメッセージを送っていきたいと思っています。感想や要望がありましたら、気軽に声をかけてください。
皆さんには、友人を大切にしてほしいと思っています。「大切にする」とは、どういうことでしょうか。その答えのひとつは、「リスペクトする(尊敬する、敬意を表す)」ということだと思います。
少し前に、ショパン・コンクール優勝者であるピアニスト、スタニスラフ・ブーニンのドキュメントをテレビで観ました。ブーニンは、左手の故障や左足の骨折手術のために9年間、演奏活動をしませんでした。55歳の彼がカンバックしたのは、日本人の妻やショパン・コンクール以来の盟友ルイサダ(ピアニスト)の存在がとても大きかったようです。ルイサダは久方ぶりのブーニンとの再会に、「我がピアノの王子! わが青春!」とブーニンを抱きしめ、「君は変わらない。いつだって貴公子のようだ。」と話しかけ、「なんて美しい手なんだ。この手を撮ってよ。」とカメラマンに言うのです。そして、演奏会を前に不安にかられるブーニンに、「君の音を届けることは、聴衆にとって最高の贈り物になるだろう。」と元気づけます。演奏会での夫の演奏を固唾を飲んで舞台袖で聴いていた妻は、夫の演奏がうまくいったのを見て、「やった!」と心からの喜びの声をあげます。妻や友人の愛情深い温かい支えがなければ、ブーニンのカンバックは難しかっただろうと思います。
どんなに才能があっても、人間は自分一人で生きているわけではないのだと強く感じます。そして、厳しい競争と変化の激しい予測不可能な状況の中で生活することが避けられないなら、私たちを支えてくれるのは、身近な人たちとの信頼関係(心のつながり)なのではないでしょうか。お互いの個性を認め、お互いの存在を尊重し、お互いに支え合い、助け合うことで、私たちは「人生の坂道」を上り続けていくことができます。
だから、自分が高校で出会った友人の誰に対しても、リスペクトしてください。歌にもあるように、誰もが「世界に一つだけの花」というべき存在です。そして、私たちは「自分のため」だけに生きても幸せではなく、自分が「誰かのため」にプラスの存在となることを喜びと感じる「善性」を備えています。現代は情報過多のために、「出合い」の意味が軽くなり、「人」への敬意も忘れられがちです。そのような状況に流され、身近な友人や家族へのリスペクトが置き去りにされることは、幸せなこととは言えないと思います。なぜなら、リスペクトを忘れた後に残るのは「孤独」でしかないからです。孤独が一概に悪いわけではなく、「価値ある孤独」もありますが、それは他者との関わりを大切にし、自他の存在がお互いにプラスであるという前提があっての孤独だと思います。(マザー・テレサは、「この世の最大の不幸」は「誰からも自分は必要とされていないと感じること」だと述べています。)
小高生の皆さん、お互いにリスペクトし合おう‼ お互いに励まし合い、助け合おう‼ そうすることで、私たちは強くなれる。相手を尊敬することは、自分を尊敬すること。小山高校が、温かい敬愛の雰囲気に包まれることを願っています。
大学入試で必要ないから勉強しない?
「校長室より」のページから、生徒の皆さんへメッセージを送っていきたいと思っています。感想や要望がありましたら、気軽に声をかけてください。
大学入試は本当に大変です。難関大の入試は、部活動にたとえるなら全国大会で戦うようなものです。勉強しなければならないことが多くて、ともすれば受験科目を絞って、「入れる大学でいいや」と妥協したくなるかもしれません。でも、安易な妥協は禁物です。目標を下げて、楽な方向に逃げてしまうと、努力しようという意気込みも薄れて、実力を伸ばすことが難しくなってしまいます。結果として、「入れる大学」の合格すら遠のいてしまうなどということもあります。
ところで、「大学入試で必要ないから勉強しない」というのは「正解」なのでしょうか。生徒の皆さんには、目の前の損得勘定だけではなく、「長い目で見た場合の正解」があることもわかってほしい気がします。「学ぶ意味」とは、大学入試だけで決まるものではないと思います。私たちの人生は、大学入試で終わるわけではないのですから。
『走れメロス』や『人間失格』の作者である太宰治のことは、皆さんも知っていますね。太宰の書いた小説『正義と微笑』の中で、主人公の少年が通う学校の「黒田先生」は、生徒たちに「勉強」について次のように語ります。
学校の勉強を、「卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだ」という考えは「大間違い」であり、「日常の生活に直接役に立たないような勉強」こそが、「人格を完成させる」。「覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということ」である。「学ぶ」ことは「心を広く持つ」ことにつながり、「愛するという事を知る事」である。そして、知識が失われても(忘れてしまっても)、「勉強の訓練の底」には「一つかみの砂金」が残り、それこそが「貴い」と。
この勉強の底に残る「一つかみの砂金」とは何でしょうか。一生懸命に学んで、学んだ知識を忘れた後も残るものとは何でしょうか。例えば、芥川龍之介や夏目漱石の小説、古文の「源氏物語」等を読んでも、高校を卒業すれば内容は忘れてしまうかもしれません。しかし、優れた文学に触れることで、人間の弱さ、どうしようもなさ、愛おしさを知ることができます。そのような人間理解は、作品そのものは忘れてしまっても、読んだ人の中に何らかの形で残るものだと思います。数学で様々な問題の解き方を覚えても、職業的に必要としない場合には、その記憶は薄れていってしまうものかもしれません。でも、論理的な思考力や判断力という「考え方の枠組み」は、学んだ人の中に残るのではないでしょうか。高校で学ぶ多くの教科・科目のどれをとっても、他の教科にはない「思考の枠組み」があり、それを蓄積することが私たちの「生きる力」になっていくのだと考えられます。私たちの内面に思考の枠組みの「引き出し」が多ければ多いほど、それだけ「多様で複雑な人生の諸問題」に対応できる力があると言えます。学ぶ意味は唯一の正解があるわけではなく、それぞれが見つけていくものかもしれませんが、私たちが日々学ぶことには「直接に役に立つかどうか以上の意味」があり、それこそが学んだ後に残る「砂金」なのだろうと思います。(太宰治というとデカダン=退廃主義のイメージが強いかもしれませんが、「黒田先生」の言葉は立派な教育論です。)
「学ぶ」=「カルチベートされる」=「心を広く持つ」=「愛することを知る」という考え方は、「教養(リベラル・アーツ)の大切さ」について端的に述べているように感じます。「カルチベートcultivate」という単語には、「(土地を)耕す、耕作する」、「(才能・品性などを)養う、磨く」、「啓発する、教養をつける」等の意味があります。皆さんは勉強を進めていく中で、「自分の脳が耕されている」ような感じ、「自分の感覚もしくは世界の見方が広がった」ような感じをもったことはありませんか。昨日までは見えなかったものが見えるようになったような感じ、さっきまでできなかったバックハンド(テニス)がある時からできるようになったような感じといったらいいでしょうか。私たちを囲む世界は混沌(カオス)かもしれませんが、多くの教科・科目を学んでいく中で「ものの見方」の引き出しを自分の内面に増やしていけば、様々なものが見えると同時に(その時々にふさわしい)秩序をもった世界として見ることができる(=理解できる)ようになるはずです。そして、その深い理解は「愛すること」につながっていきます(逆を言えば、理解できないものを愛することは難しいということになります)。
「学ぶこと」は「(世界を)理解すること」。「学ぶこと」は「心を広く持ち、愛すること」。多くを学ぶことは、より愛せるようになること。だから、「学びの意味」は大学入試だけでは測れないのです。
誰のために学ぶか?
「校長室より」のページから、生徒の皆さんへメッセージを送っていきたいと思っています。感想や要望がありましたら、気軽に声をかけてください。
毎日の勉強は大変ですよね。「高校の勉強なんて楽勝」という人は、少ないはずです。やらなくてはいけない量が多い時には、「もういいや」と投げ出してしまいたくなることもあると思います。偉大な先人たちが積み上げてきた「知の遺産」について学ぼうというのですから、大変なのは当たり前かもしれません。「いったい何のために、こんなことをしてるんだろう」、「誰のためにやってるんだろう」という疑問の思いが、心の奥からわいてきませんか? 高校時代の私は、いつもそういう疑問を胸のうちにくすぶらせていました。
ここで、一人の音楽家について紹介したいと思います。この方は日本人の女性ヴァイオリニストです。私とほぼ同年代の方ですが、私が子どもの頃にテレビに出ていて、ヴァイオリンの「天才少女」として紹介されていました。少し強気な表情をした彼女がヴァイオリンを見事に弾くのをテレビの画面越しに見ながら、世の中にはこんな凄い少女がいるのかと、私は別世界の人を見ているような気持ちでいました。
彼女は2才からヴァイオリンを始めたそうですが、10才の時に先生の勧めで大きなコンクールに挑戦することになります。そして、猛練習を積み、見る間に上達し、周囲を驚かせます。その年のコンクールは惜しくも2位でしたが、翌年には見事に優勝し、一躍「天才少女」として注目を浴びます。
しかし、「天才少女」という賞賛の陰で、嫉妬やいじめを受け、学業との両立に悩み、次々と設定される高いハードルに苦しんだそうです。高校時代には、天才であり続けるための圧力に身体と心が悲鳴をあげていたといいます。そして、遂にはヴァイオリンをやめてしまいます。
大学は文学部に入学し、大学で哲学等の講義を聴きながら、自分探しをしていた彼女は、ふとした縁でボランティアを手伝うことになります。そして、ホスピス訪問で、一人の末期がんの患者さんが、最後に彼女の演奏を聴きたいと願っていることを知らされ、戸惑いながらその方をお見舞いし、数年間全く触れていなかったヴァイオリンを手に取りました。なんとか演奏はしたものの、思うように指が動かず、かつてのような音色を出すことはできませんでした。
「ありがとう。本当にありがとう。」患者さんは涙ながらに、繰り返し感謝の言葉を口にしたそうです。
「こんな演奏に感謝の言葉をいただいて申し訳ない。ヴァイオリンをやめずに続けていればよかった。」そう思った彼女は、その日からヴァイオリンの練習を再開しました。
ただ一人の聴き手の、心からの感謝の言葉が、壁にぶつかっていた一人の音楽家に「音楽の人生における意味」を思い出させ、音楽の道へと引き戻したのです。この方は、今も人々に音楽を届け、感動を与えるヴァイオリニストとして活動を続けています。
私たち人間は、社会的な存在であり、自分以外の他者と関わりながら、日々生活しています。そして、互いに様々な影響を与え合いながら、厳しい競争原理の中で生きています。そこには必然的に、「自分のために生きるか」、「誰かのために生きるか」という問いが生まれてきます。「自分のために生きる」ことと、「誰かのために生きる」ことが、完全に一致するとしたら、それは最も幸せなことかもしれません。しかし、現実の競争社会では、私たちは「自分のため」を優先しなければならない場面も多いと思います。でも、「自分のため」だけでは、本当の喜びを得ることは難しいのではないでしょうか。上に紹介したヴァイオリニストの方が音楽の道に戻ったのも、自分以外の「誰かのため」にいい演奏がしたいと思ったからです。
様々な職業に就いている方々の口から、それぞれの仕事のやりがいについて、共通する話を聞いたことがあります。それは、「自分の仕事が誰かの助けになった」、「誰かの生活をよりよい方向に変えることにつながった」ということです。私たちは、「自分のため」に生きているかもしれませんが、同時に「誰かのため」になることに取り組み、自分の存在が誰かの喜びにつながることを望む思いもあります。大切なのは、「自分のため」と「誰かのため」のバランスではないかと考えます。「自分」のことばかりを思っていると、時に失敗を恐れて力を存分に発揮できないこともあります。
皆さんが日々学んでいるのは、「自分のため」であるかもしれませんが、「誰かのため」でもあると私は考えています。複雑で先の予想が難しい現代社会は、多くの課題を抱え、私たちは様々な事情で悩んだり苦しんだりしています。私たちは、お互いに相手の悩み・苦しみを理解しようと努めて、お互いを尊重しあい、お互いに思いやりあって生活することが大切です。そして、互いに知恵を出し合い、少しずつでもこの社会をよりよいものにしていこうとすることが大切です。そのために、皆さんは日々学んでいるのです。
小高生は、人への思いやり・気遣いがあって、心優しいと感じています。高校での学習は、学ぶべきことが多くあって、けっして楽ではありませんが、その学びによって培った力が、社会で生かされる時が必ずあるはずです。心優しい皆さんの存在が、誰かの力となる日がきっとあります。どうか、自らの「学び」の意味について、思いを巡らせてみてください。
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小山高校・若木小学校東側の道路はスクールゾーンのため、朝7:00~8:30まで車両進入禁止です。