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上三川高校周辺の歴史
周辺の歴史 その9
9 多功原合戦をめぐって-その1-
○元亀4年(1573)と推測される3月5日、越後の戦国大名上杉謙信は、会津蘆名(あしな)氏の家臣宛てに書状を出しますが、その中に次のようなことが書かれていました。
「北条氏政が兵を北関東に遣わして無益な戦いをしかけてきたが、佐竹氏や宇都宮氏らの連合軍がこれを迎え撃ち、合戦となった。昨年12月29日夜、下野国の多功原で北条軍が敗れ、それを佐竹・宇都宮氏らが追撃したため、北条方の数千人が討ちとられた。そのため 氏政は一騎のみとなって岩付へ逃げていったとのことである」(上杉家文書)
○すなわち、戦国時代後期に、本校付近で関東最大の戦国大名である小田原北条氏が、下野宇都宮氏や常陸佐竹氏などの連合軍と合戦を行ったことがわかります。これを多功原合戦と呼ぶことにします。
○そもそもこの合戦は、なぜ起こったのでしょうか。実はこのころ、関東中・北部をめぐって上杉氏と北条氏が激しい勢力争いを繰り広げていたのです。宇都宮氏ら北関東の武将たちは、主に上杉氏と結んで自らの勢力を維持しようとしましたが、本国から遠く、単発的な攻撃しかできない上杉氏は、次第に劣勢になっていきました。
○一方、下野国内の諸勢力も実は一枚岩ではなく、那須氏や壬生氏など、宇都宮氏と勢力を争っていた武将たちは、北条氏と結んでいたのです。
○現在の栃木市北西部を本拠とする皆川氏も、はじめは宇都宮氏と同盟を結んで上杉方の立場でしたが、元亀2年(1571)に武田氏と北条氏が同盟を結んだのを機に北条方へ転じ、宇都宮氏とも対立するようになりました(次回へ続く)。
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