日誌

日常のささやかな営みの価値 ~修業式放送講話~

 皆さんが、元気に登校してくれて、とてもうれしく思います。突然の休校から3週間が経ちました。その間、どのように過ごしていたでしょうか。おそらく、地道に課題に取り組むなど、一人一人が「自彊力」を発揮し、自学自習に励んでくれたことと思います。
 こうした中で、高校英語ディベート部がパーラメンタリーディベートの全国大会で3位という見事な成績を残してくれました。ウイルス感染対策のため、オンライン対戦による全国大会でした。この困難な状況の中で手にした成果であるだけに価値の高いものだと思います。
 さて、臨時休校に入り、皆さんの中には、最初のうちは、授業や予習復習といった日々の活動から解き放たれたという開放感を感じた人も少なからずいたのではないかと思います。しかし休みが長くなると、おそらく、「早くみんなにあいたい」「授業を受けたい」「部活やりたーい!」と感じていた人が多いのではないでしょうか。
 友人との語らい、授業、部活動・・・。こうした日常の日々は、普段は、特に努力しなくても自然に手に入るもののように感じています。しかし、一端失われてみると、それらの日々や、触れあう相手の存在が、いかに貴重なものであるかを思い知らされます。この臨時休校は、そうした「日常」の持つ、かけがえのない価値を再認識する期間でもあったのではないかと思います。
 この期間中、新聞に、ある中学生の投稿記事を見つけました。次のようなものでした。
 (無料配信される映像授業や友人とのメールなどによって)学校ですることが家で個人でもできるなら、わざわざ通学する意味は何だろう。今、学校生活と大きく違うのは、「嫌い」なものに触れなくなった点だ。学校に行けば、苦手な人と顔を合わせ、嫌いな教科も学び、時に退屈な時間を過ごすこともある。でもその苦みや雑味も含めた日々は何にも代え難い味わいがある。・・・騒がしくて息苦しいほどのあの日々が愛おしく、また、今を少しもの足りなく思っている。
(「休校で気づいた学校に行く意味」3月20日 朝日新聞「声」欄より)
 この中学生が言うように、メディアやネット環境は、私たちにたくさんの貴重な情報を提供してくれており、私たちには選択の自由が与えられていますが、私たちはどうしても、自分にとって心地の良い情報や、刺激的な情報を選択しがちです。特にネット環境では、閲覧や通販利用の履歴などを元に、一人一人にとって心地の良い情報が優先的に提供されます。その結果、私たちの思考や判断は、正確さを欠いたり、偏りを見せたり、自己中心的なものになったりする危険性を孕みます。
 これからの情報化社会に生きる皆さんは、そうした可能性を認識しつつ、上手に活用して知識を増やし、主体的・客観的に判断する力を身につけていく必要があるのだと思います。
 さて今、私たちは新型コロナウイルスへの不安にさらされています。『サピエンス全史』の作者ユヴァル・ノア・ハラリによれば、人類の歴史は、戦争と飢餓と、そして伝染病の克服の歴史でありました。かつては、ペストや天然痘に対して人類は無力でしたし、数十年前まで結核は脅威でしたが、私たちは既にそれらの困難のほとんどを乗り越えています。私たちは間違いなく、この新たなウイルスの脅威にも打ち勝つでしょう。
 明日から春休みに入ります。引き続き、「やらされる」のではなく、自分で自分の心と体を鍛える機会、つまり「自彊力」を高める機会と捉えてください。密集集団、密閉空間、密接な接触を避けて感染予防に努めつつ、一人ひとりが学校の再開へ向けての万全の準備を整えてください。
 そして新年度、学校が再開されたら、その日常のささやかな営みの一つ一つを大切にし、自分の可能性を思いのままに伸ばしてください。どのような困難の中でも成長を止めない皆さんを信じています。
 春休みもそして新年度も、元気で過ごしください。
          (3月24日 分散修業式 放送による講話)