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上三川高校周辺の歴史
周辺の歴史 その6
6 中世武士多功氏、上三川氏の成立
○多功氏、上三川氏は、いずれも中世下野を代表する武家である宇都宮氏の一族で、鎌倉中期に多功城、上三川城をそれぞれ拠点として成立した、とされています。このことを確認できる信憑性の高い史料はありませんが、上三川城跡から出土した遺物は、鎌倉時代のものであることが確認されています。
○宇都宮氏は宇都宮を拠点として、次第に周辺の地域へ一族を配置していきました。このうち氏家氏(さくら市)や塩谷氏(塩谷町)の分立が最も早く、ついで多功氏や横田氏(同氏から上三川氏が分かれる)、そして鎌倉末期になり武茂(むも)氏(那珂川町)とその分家西方氏(栃木市)などが成立します。
○多功氏は、鎌倉前期の宇都宮家当主頼綱の子、宗朝に始まるとされています。室町前期に作成された系図には、「小山と号す」とあり、これはおそらく児山に通じるとみられるので、はじめは児山(下野市)を名字の地としたのかもしれません。また江戸時代の系図では宗朝の名字として「西上條」をあげていますが、これは宗朝の兄弟で上條を名乗った時綱が、宝治合戦(1247年)の際に三浦方に加担して討たれたため、宗朝がその所領の一部を継承したものと思われます。
○なお横田氏の祖である頼業も「東上條」を称しているので、事情は同じだったのでしょう。
○ところで多功氏、横田氏ともに鎌倉時代の史料には「宇都宮」の名字で記されていて、既に氏家や塩谷を名乗っていた分家との違いがみられます。これは多功氏、横田氏が、氏家氏や塩谷氏に比べて、まだ独立した御家人としての地位を得ていなかったことを示しているのかもしれません。
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