日誌

Yes, Virginia, there is a Santa Claus. ~卒業生に向けて~

 今年は、整備委員会によって、昇降口の花壇にクリスマスツリーが飾られた。私は、そのツリーを見ながら、子ども時代の懐かしい思い出や、自分の子どもに買ってあげたクリスマスプレゼントのことなどを思い出していたのだが、ふと、20年ほど前に同僚が電話で受けた県民からのある質問を思い出した。
「サンタクロースは本当はいないのだということを、子どもに、いつ頃どのように教えたら良いでしょうか?」
そのとき、その同僚がどのような回答をしたかはよく覚えていないが、「特に教える必要はなく、自然にわかるようになります。」といった回答をしたように思う。ただ、回答の参考にしたものとして私に教えてくれた資料についてはよく覚えている。Virginiaという8才の少女から「Please tell me the truth, is there a Santa Claus? (本当のことを教えてください。サンタクロースはいるのですか?)」という質問を受けたアメリカの新聞社は、「社説」で答えた。次の一節はその一部である。
 Yes, Virginia, there is a Santa Claus. He exists as certainly as love and generosity and devotion exist, and you know that they abound and give to your life its highest beauty and joy.
(そう、バージニア、サンタクロースはいます。彼は、愛情や、寛大や、献身が確かに存在するのと同じように存在するのです。あなたは、それらが溢れるほどにあって、あなたの人生に最高の美しさと喜びを与えるのだということを知っているでしょう。)
  そういえば、『星の王子さま』の中で、サン=テグジュペリは、狐に「いちばんたいせつなことは、目に見えない」と語らせていた。
 愛情、寛大、献身、尊敬、信頼、絆、縁、命・・・。そういったものは、確かに目に見えない。しかし、目に見えるもの以上の価値をもって、確かに存在している。

 言うまでもなく、私はここで、宗教的なことやスピリチュアルなことを言おうとしているのではない。あるいは、知性に感性が優越するということを言おうとしているわけでもない。
 むしろ、人間の歴史は、見えないものを見ようとする歴史である。
 好奇心の源は、見えていないものを見たいという思いである。
 他者との相互理解は、互いに見えていなかったものを見えるようにしたときに進展する。
 そして私たちの社会生活の多くの部分は、業績、数値、地位、条文といった、誰の目にも見えるように変換されたものによって支えられている。
 このように、私たち人類(ホモサピエンス)は、「見えないものを見ようとする動物である」とも言えるだろう。比喩的に言えば、人間は「火を使う猿」である以上に、「望遠鏡を覗く猿」、あるいは「算盤を弾く猿」なのであろう。
 しかし、人間の知性は万能ではない。その限界を知ることも、健全な知性にとっては大切なことである。
 試みに、「現時点での」という条件を付けてみよう。「現時点での知性に見えないものは存在しない」という認識が、偏りを持つものであることが明確にわかるだろう。ウイルスも、ブラックホールも、かつての私たちの目には見えないものであった。傲慢な知性は、危険であるだけではなく、知性自身の目も曇らせる。
 黄熱病の研究に心血を注いだ野口英世ですら、黄熱病の病原体を発見したと思い込んだまま、皮肉にもその黄熱病に倒れている。当時、電子顕微鏡は存在せず、黄熱病のウイルスは、野口英世の持っていた光学顕微鏡では決して見ることのできないものであった。

 高校卒業後の人生の多くの時間が、目に見えるものとの関わり、あるいは、目に見えないものを目に見える存在とするための営みに費やされることだろう。そのとき、目に見えないものを見ようとしつつ、目に見えないものの存在する可能性に思いを馳せて欲しいと思う。

 そして、目に見えるものだけに目を奪われるのではなく、目に見えないものの持つかけがえのない価値に、思いを致して欲しいと思う。
                 (PTA会報 95号より)