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正・剛・寛の意味するところ ~卒業生に贈る~
振り返りますと、本年度の創立記念式典では、宇都宮東高校の卒業生である直木賞作家門井慶喜氏から「歴史に学ぶ」という講演を頂きました。その中で、門井氏は、校訓の「正剛寛」について、次のように語っていました。
「正」も「剛」も、もちろん大切だが、特に「寛」はおもしろしくて、世の中にある、強くも正しくもないものに関して、その人が何処まで寛容でいられるか、寛い心でものを見るかという、ものの見方のポイントになる。
門井さんのこの「寛」に対する考え方は、いわゆる「寛容のパラドックス」に通じるものです。それは、
「『寛容』は、『不寛容』に対して『寛容』たり得るか、という逆説を孕んでいる」ということです。
もう少し具体的に言うと、例えば
「『平和主義』は、平和を脅かす『暴力』に対して、本当に『平和主義』を貫けるのか」
ということです。あるいは例えば
「『言論の自由』は、言論を弾圧する発言に対して、『言論の自由』を保障することはできないのではないか」
ということ、これが「寛容のパラドックス」です。
今後、国際化の進展やAIあるいは生命科学の革新などが、私たちの社会に新たな地平を拓くでしょう。一方で、国際化に伴い、異文化の間の軋轢は今よりも増加し、科学の発達は、私たちに人間そのものを問うような課題や判断を突きつけるでしょう。
自分の価値観と異なる存在や、未知の存在に対して、どのように向き合うのかということが問われる時代になるのだろうと思います。そのとき、短絡的に思考停止に向かうのではなく、粘り強く課題と向き合い、よりよい解決策を探し、的確な判断を下せる存在であってほしいと思います。そして見通すことの難しい未来を、不安視するのではなく、「わくわく」して迎えてください。 (附属中学校卒業式式辞より)
「正」も「剛」も、もちろん大切だが、特に「寛」はおもしろしくて、世の中にある、強くも正しくもないものに関して、その人が何処まで寛容でいられるか、寛い心でものを見るかという、ものの見方のポイントになる。
門井さんのこの「寛」に対する考え方は、いわゆる「寛容のパラドックス」に通じるものです。それは、
「『寛容』は、『不寛容』に対して『寛容』たり得るか、という逆説を孕んでいる」ということです。
もう少し具体的に言うと、例えば
「『平和主義』は、平和を脅かす『暴力』に対して、本当に『平和主義』を貫けるのか」
ということです。あるいは例えば
「『言論の自由』は、言論を弾圧する発言に対して、『言論の自由』を保障することはできないのではないか」
ということ、これが「寛容のパラドックス」です。
今後、国際化の進展やAIあるいは生命科学の革新などが、私たちの社会に新たな地平を拓くでしょう。一方で、国際化に伴い、異文化の間の軋轢は今よりも増加し、科学の発達は、私たちに人間そのものを問うような課題や判断を突きつけるでしょう。
自分の価値観と異なる存在や、未知の存在に対して、どのように向き合うのかということが問われる時代になるのだろうと思います。そのとき、短絡的に思考停止に向かうのではなく、粘り強く課題と向き合い、よりよい解決策を探し、的確な判断を下せる存在であってほしいと思います。そして見通すことの難しい未来を、不安視するのではなく、「わくわく」して迎えてください。 (附属中学校卒業式式辞より)