2023年3月の記事一覧

周辺の歴史 その6

6 中世武士多功氏、上三川氏の成立
 
○多功氏、上三川氏は、いずれも中世下野を代表する武家である宇都宮氏の一族で、鎌倉中期に多功城、上三川城をそれぞれ拠点として成立した、とされています。このことを確認できる信憑性の高い史料はありませんが、上三川城跡から出土した遺物は、鎌倉時代のものであることが確認されています。 

                   
○宇都宮氏は宇都宮を拠点として、次第に周辺の地域へ一族を配置していきました。このうち氏家氏(さくら市)や塩谷氏(塩谷町)の分立が最も早く、ついで多功氏や横田氏(同氏から上三川氏が分かれる)、そして鎌倉末期になり武茂(むも)氏(那珂川町)とその分家西方氏(栃木市)などが成立します。


○多功氏は、鎌倉前期の宇都宮家当主頼綱の子、宗朝に始まるとされています。室町前期に作成された系図には、「小山と号す」とあり、これはおそらく児山に通じるとみられるので、はじめは児山(下野市)を名字の地としたのかもしれません。また江戸時代の系図では宗朝の名字として「西上條」をあげていますが、これは宗朝の兄弟で上條を名乗った時綱が、宝治合戦(1247年)の際に三浦方に加担して討たれたため、宗朝がその所領の一部を継承したものと思われます。


○なお横田氏の祖である頼業も「東上條」を称しているので、事情は同じだったのでしょう。

○ところで多功氏、横田氏ともに鎌倉時代の史料には「宇都宮」の名字で記されていて、既に氏家や塩谷を名乗っていた分家との違いがみられます。これは多功氏、横田氏が、氏家氏や塩谷氏に比べて、まだ独立した御家人としての地位を得ていなかったことを示しているのかもしれません。

周辺の歴史 その7

7 南北朝時代の動乱と上三川城
 
○前回紹介したように、上三川城や多功城は、鎌倉時代なかごろに築かれたとされていますが、その後しばらくは関係史料がほとんど見当たりません。


○唯一、南北朝時代の上三川城の動向を伝える古文書が残っています。延元4年(北朝年号は暦応2年、西暦1339年)2月、南朝方の春日顕国(あきくに)という武将が、常陸小田城(茨城県つくば市)から下野南東部へ向けて進撃してきました。北朝・足利方であった宇都宮氏の勢力を討つためです。

                                                    
○顕国は2月27日に八木岡城(真岡市)をおとした後、同月中に益子城も攻略し、さらに上三川城と箕輪城(下野市)へ進みました。この2つの城には当時、足利一門の桃井(もものい)氏の兄弟がそれぞれ入っていましたが、「自落」すなわち自ら城を捨てて逃げてしまったようです。


○本来の城主であったはずの宇都宮一族横田氏の名前は、古文書にはのっていませんが、おそらくは主家である宇都宮氏に従い、足利方として戦っていたものと思われます。


○関東における南朝勢力は、この時期最も強勢を誇っていました。このため上三川城も、少なくともいったんは南朝方によって占拠されてしまったようです。

周辺の歴史 その8

8 戦国時代の東西交流-多功氏家臣石崎氏-
 
  ○戦国時代、本校周辺を治めていた多功氏には、石崎氏という家臣がいました。系図によると、もともとは伊予国(今の愛媛県)の武士で、南北朝時代なかごろに宇都宮家の当主氏綱から所領を与えられたことを機に下野へ移り、室町時代には宇都宮一族の多功氏に仕えました。


  ○伊予の武士が宇都宮氏から所領をもらうのは不思議に思うかもしれませんが、実は宇都宮氏やその一族は、鎌倉時代に同国の守護や地頭に任ぜられたりしていたのです。


  ○そして室町時代の伊予関係の信頼できる史料には、喜多(きた)郡(今の大洲(おおず)市付近)に祖母井(うばがい)氏や水沼氏など、下野国内を本拠とする宇都宮氏の家臣たちの名が複数見られます。つまり宇都宮氏は、伊予へ赴く際に彼らを引き連れていったものと推測されるのです。


  ○だとすれば、反対に伊予の武士が宇都宮氏の家臣となって下野へ移ってきても、おかしくはないでしょう。もし本当に石崎氏の出身が本当に伊予であったとすれば、現在までに知りうる唯一の事例ということになります。中世の人々は、われわれが思っている以上に頻繁に移動し、遠隔地に移り住んだりすることも珍しくなかったようです。


  ○石崎氏は、古文書によれば天正10年代の前半、主家の多功氏や、その主家である宇都宮氏に従い、北進を続けていた小田原北条氏との戦いに参加して、土地や役職を与えられたりしています。

  ○なお上で紹介した系図や古文書は、今も町内に住むご子孫が大切に受け継ぎ、保管してきたものなのです。   

周辺の歴史 その9

9 多功原合戦をめぐって-その1-
 
○元亀4年(1573)と推測される3月5日、越後の戦国大名上杉謙信は、会津蘆名(あしな)氏の家臣宛てに書状を出しますが、その中に次のようなことが書かれていました。

 

 「北条氏政が兵を北関東に遣わして無益な戦いをしかけてきたが、佐竹氏や宇都宮氏らの連合軍がこれを迎え撃ち、合戦となった。昨年12月29日夜、下野国の多功原で北条軍が敗れ、それを佐竹・宇都宮氏らが追撃したため、北条方の数千人が討ちとられた。そのため 氏政は一騎のみとなって岩付へ逃げていったとのことである」(上杉家文書)
 

○すなわち、戦国時代後期に、本校付近で関東最大の戦国大名である小田原北条氏が、下野宇都宮氏や常陸佐竹氏などの連合軍と合戦を行ったことがわかります。これを多功原合戦と呼ぶことにします。

○そもそもこの合戦は、なぜ起こったのでしょうか。実はこのころ、関東中・北部をめぐって上杉氏と北条氏が激しい勢力争いを繰り広げていたのです。宇都宮氏ら北関東の武将たちは、主に上杉氏と結んで自らの勢力を維持しようとしましたが、本国から遠く、単発的な攻撃しかできない上杉氏は、次第に劣勢になっていきました。


○一方、下野国内の諸勢力も実は一枚岩ではなく、那須氏や壬生氏など、宇都宮氏と勢力を争っていた武将たちは、北条氏と結んでいたのです。


○現在の栃木市北西部を本拠とする皆川氏も、はじめは宇都宮氏と同盟を結んで上杉方の立場でしたが、元亀2年(1571)に武田氏と北条氏が同盟を結んだのを機に北条方へ転じ、宇都宮氏とも対立するようになりました(次回へ続く)。

周辺の歴史 その10

10 多功原合戦をめぐって-その2-
 
○北条方に転じた皆川俊宗は元亀3年(1572)正月、かつての格上の同盟者だった宇都宮氏の本拠、宇都宮城を占拠してしまいました。この事態はまもなく解決した模様ですが、俊宗の反抗はなおも続きました。


○これを重大視した、ときの宇都宮家の当主広綱は、姻戚関係にあった常陸の佐竹義重(よししげ)に皆川討伐の支援を求めました。義重はこれをうけ、同年10月末に出陣し、広綱とともに皆川氏の諸城への攻撃を開始しました。

○一方、深谷城(埼玉県深谷市)や栗橋城(茨城県五霞〔ごか〕町)攻めのため小田原から出撃していた北条氏政は、佐竹・宇都宮両氏による皆川攻めの知らせを聞き、これを助けるために下野へ入りました。そこで両勢力が激突したのが多功原合戦だったのです。

○謙信が書状の中で述べる「氏政は一騎のみとなって逃げた」は、いくらなんでもオーバーですが、この戦いに北条軍が敗れたことはまちがいなく、佐竹氏や宇都宮氏らによる皆川氏攻めは、翌元亀4年2月まで続いたのです。                      

○ただし、北条軍の北進という動きを根本的に止めることはできず、天正2年(1574)末以降、いよいよ下野を含む北関東への侵攻は、激しさをましていきました。

○なお年代ははっきりしませんが、この前後の時期にも上三川や多功へは佐竹義重が着陣したり、北条軍が攻めかかったりしています。こうしたことから、この付近は戦略上の要地であって、元亀3年12月に多功原合戦が起きたのも、決して偶然ではなかったのかもしれません。