2023年3月の記事一覧

周辺の歴史 その1

1 遺跡の上にたつ上三川高等学校

 

○上三川高等学校は、遺跡の上にたっています。「多功南原遺跡(たこうみなみはらいせき)」といい、学校やその北側の多功南原公園なども含む周辺一帯をさします。

 

○このうち本校の敷地内は、校舎が建てられる前年の昭和58年(1983)5月から9月にかけて発掘調査が行われました。その結果、住居跡9軒の他、井戸跡、火葬墓、土坑29、土師器(はじき)や須恵器(すえき)などの土器、瓦や砥石、鉄製の鏃(ぞく、矢の先についた刃)などが見つかりました。

 

○たとえば住居跡の1つをみてみると、大きさは東西4.5m、南北4.2mで、広さはだいたい15畳程度です。四方それぞれ20cm余り掘られていて、これが壁の役割を果たしました。内部に2ヵ所、柱をたてた穴が残り、北側には煮炊きをしたと思われる、かまど跡があります。

 

○これらのうち、土坑については縄文時代のものとされていますが、それ以外は、住居跡から見つかった土器の年代から判断して奈良時代、8世紀なかごろから9世紀後半ごろのものとみられています。

周辺の歴史 その2

2 多功にあった古代の建物の正体は?

○前回は上三川高校が原始・古代の遺跡の上に建てられたことをお話ししました。この多功南原遺跡には、本校の周りにも重要な遺構、遺物が多く残っています。


○なかでも、一般住居跡よりはるかに大規模な掘立柱(ほったてばしら)の建物址が、全部で59棟も見つかっていることは、きわめて注目されます。時期は8世紀末~9世紀初め、奈良時代末~平安時代初めごろのものとみられています。このうち最大のものは、9m×5.4mほどもあり、庇(ひさし)と瓦屋根をもつ立派な建物であったと推測されています。この時代、よほど重要な建物でないと瓦屋根は用いられません。


○いったい、こうした建物は何だったのでしょうか。専門家の中には、古代の役所、それも今の県にあたる国や、その下の郡の役所にしてはやや小さいので、郡の下の郷の役所跡ではないか、という人もいます。その一方で、この付近に古代日本の幹線道路の一つ、東山道(とうさんどう)が通っていたことがわかっているので、駅家(えきか・うまや)跡ではないか、とする説もあるのです。


○いずれにしても、本校付近が古代の下野において、政治的にかなり重要な地域であったことは、まちがいないようです。                      

周辺の歴史 その3

3 地名の由来ー上三川と多功ー

○本校の校名である「上三川」は、もちろん学校のある上三川町からとったものですが、ではそもそも「上三川」という町名の由来は何でしょうか。

                   
○平安中期につくられた『倭(和)名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)という辞書によると、古代下野国河内郡の中に「三川郷」がありました。多功南原遺跡から出土した土器にも、「三川」と墨で書かれたものが見られます。この三川郷が、後に上・中・下に分かれ、下三川については不明ですが、中三川は江戸初期に上三川にあわさる形で廃止されました。その位置は、現在の上三川町大字上三川付近と思われます。


○では、この「三川」の由来は何でしょうか。単純に考えれば、この付近を流れる三本の川(鬼怒川、江川、田川。ただし異説あり)からきているともみなされますが、「三」はもともとほめたたえる意味の「ミ」とみなすべき、つまり多くの川が流れる場所、というほどの意味である、という説もあるのです。


○一方、学校のある大字「多功」は、一般には東山道に設けられたこの付近の駅家、「田部」が、本来は「田郡」(たこおり)で、これが多功になった、とされています。しかし、「タベ」の「タ」には意味はなく(調子を整えるため)、「ヘ」は「ウヘ(上)」、つまり台地をさし(このあたりは大字上三川付近が低地なのに対し、台地である)、これが郡衙(ぐんが、郡の役所)がおかれた関係で「田郡」に転じ、さらに多功となった、とする説もあるのです。


○地名の由来は、確実な証拠がないため、特定することは難しいのですが、その地域のいろいろな特徴から推測してみることには、それなりの意味があると思います。

周辺の歴史 その4

4 古代の役所跡-上神主・ 茂原官衙遺跡その1-
 
○上三川町上神主(かみこうぬし)と宇都宮市茂原(もばら)にまたがる河内郡衙(ぐんが、郡の役所)跡とみられるのが、上神主・茂原官衙(かんが)遺跡です。


○平成7~14年(1995~2002)にかけて上三川町教委と宇都宮市教委が行った調査の結果、瓦ぶき屋根1棟、掘立(ほったて)柱建物跡53棟、掘立柱塀(へい)跡2基、溝跡8条、道路跡などが確認されました。


○役所の規模は、東西約250m、南北約400mと推定され、西側に大きな門があった他、南東部にも出入口があったようです。


○遺構内部は北側の建物群、中央部の政庁域、南側の正倉域の3つにわかれ、南東部に接する形で東山道(とうさんどう)とみられる古代の幹線道路が通っていました。


○役所は8世紀前半を最盛期として、7世紀後半から9世紀前半まで存在していたとみられ、 この間、建物の変化から4つの段階にわけられます。


○これだけ郡役所の全体像がわかる遺跡は全国的にも少なく、また次回紹介するような人名を刻んだ瓦が多数出土していることもあり、平成15年(2003)国の史跡に指定されました。

周辺の歴史 その5

5 古代の人名-上神主・ 茂原官衙遺跡その2-
 
○この遺跡最大の特徴は、正倉域にある31.4m×9.0mの規模をもつ建物の屋根に葺(ふ)かれていたとみられる多数の瓦が出土し、このうち人名が刻まれているものだけでも約2300点もある点です。


○人名は18姓、94名が確認でき、これほど多くの人名瓦が見つかった遺跡は、他にないそうです。


○具体的に人名をみてみると、「酒部毛人」「神主部牛万呂」「大麻(続)古万呂」など、河内郡内の郷名と一致するものや、「雀部称万呂」「川和子万(呂)」のように、中世以降にみられる周辺の地名(雀宮、川名子)との関連が推測されるものなどがあります。


○ところで、なぜ瓦にこうした人名が刻まれたのでしょうか。皆さんも近くの寺院や神社などで、鳥居や灯籠などに人名が刻まれている場合があることに気づくことと思います。あれは、それらの造営にお金を出して協力した人々の名前です。同じように考えると、瓦の人名は、この瓦の製作費を負担した周辺の有力者、あるいは造営の労役に関わった人々を記録したものと推測されるのです。


○なお、名前の最後につくことの多い万(麻)呂は、大切な人やものの最後につく接尾語で、中世において人の幼名や刀、鎧(よろい)などにつく「丸」も、その名残ではないか、とする考え方もあるのです。