烏山和紙
烏山和紙の歴史

下野国(*1)の和紙が歴史に登場するのは、奈良時代、朝天平宝字4年(760年)、書物に「写経料紙を産出す」と書かれているのが最初です。

1210年代(鎌倉時代、建保年間)には、越前国(*2)から手すきの職人がまねかれて、那須奉書(*3)が作られ、那須紙(なすがみ)として全国に知られるようになりました。

江戸時代(えどじだい)には、烏山藩主(からすやまはんしゅ)が、農作業の合間の仕事として、紙づくりを勧めました。

江戸の町でよく売れたので、農家では、藩主が米作りに影響しないかと心配するほど、和紙の生産に熱中しました。

生産している家は90件にもなりました。

江戸の紙商人は、和紙がよく売れたお礼にと、烏山の神社や寺に、石だんや石灯ろうを奉納しました。

宮原八幡宮(みやはらはちまんぐう)には、江戸時代、明和(めいわ)5年(1768年)に、江戸紙問屋仲間、村田儀兵衛(むらたぎへい)らが献納した石灯ろうがまだ残っています。


当時、「那須紙」と呼ばれたものは

・檀紙(だんし)

・十文字紙(じゅうもんじし)

・程村紙(ほどむらし)

・西の内紙(にしのうちし)

という種類の和紙でした。

強さと優雅さで有名でした。

特に、厚紙の最も貴重な品ともいわれる程村紙は烏山を代表する和紙で、現在は国の選択無形文化財に指定されています。


山あげ祭りの山車(だし)には、和紙がたくさん使われています。

かつて烏山和紙の生産が盛んであったことがよく分かります。

しかし、これほど盛んであった歴史と伝統に輝く「烏山和紙」の産地は消滅し、現在は福田製紙所の一ヶ所を残すのみとなりました。

その理由としては、機械作りの和紙が、早くしかも安く生産されるようになったということがあげられます。

手作り和紙では、値段のうえでかなわなかったのです。


用語解説

(*1)下野国(しもつけのくに)

現在の栃木県(とちぎけん)あたり

(*2)越前国(えちぜんのくに)

現在の福井県(ふくいけん)あたり

(*3)那須奉書(なすほうしょ)

「奉書」は天皇や武士の命令を伝える文書のこと。

奉書用の紙として那須奉書は質が良いと評判でした。