上三川高校周辺の歴史

周辺の歴史 その16

16 上三川町ができるまで
 
○明治維新後、日本の地方制度は何度かの変更を経て、明治21年(1888)に市制・町村制が制定されました(翌年施行)。これは明治憲法制定に備え、地方自治制度の確立が急がれたためにとられた施策でした。

 

○この改革によって、それまでの小規模だった町や村はまとめられましたが、栃木県の場合、109町、1148村だったのが26町、145村となったのです。現在の上三川町域でみると、23の村が、上三川村、本郷村、多功村(後に明治村)の3村に統合されました。

 

○この3村の村名はどのように決められたのでしょうか。まず上三川村については、まとめられたもとの7村のうち、最も大きな村の名前がやはり上三川村だったため、それがそのまま使われました。

 

○ところが本郷村は、まとめられた8つの村のいずれの名前でもありません。町村制では、特に大きな村がない場合、住民感情を考慮して関係者が納得するような村名とすること、と定められていました。はじめ8村の中の上郷村とする案が出ましたが、反対が多くてまとまらず、結局8村すべてにあった、「本田」という地名の「本」と、「上郷」の「郷」を組み合わせて「本郷」としたのでした。

 

○さらに多功(明治)村は、はじめ多功宿の主張でいったん多功村に決まったのですが、他の7村が反対し、折り合いがつかなかったため、当時の元号をとって明治村としたのです。

 

○つまり本郷と明治という村名は、江戸時代にはなかった地名というわけです。なお、これら3村のうち上三川村は明治26年(1893)に上三川町となり、戦後の昭和30年(1955)、町村合併促進法により上三川町、本郷村、明治村が合併し、現在の上三川町が誕生しました(3つの地名は町内の中学校の名前として残っています)。                                    

周辺の歴史 その17

17 日産栃木工場と上三川町-その1-
 
○昭和30年(1955)、合併によって新上三川町が発足した時点では、その人口は約19000人(ちなみに現在は約31000人)でした。このころ日本は高度成長期に入り、人口の都市への集中が進んでいました。上三川町でも勤労青少年の転出者がふえ、それにともなって毎年人口は減少し、昭和43年(1968)には約17000人あまりにまで落ち込んだのです。いわゆる過疎化の傾向が強まっていました。

 

○ところが同じ年に、上三川町にとって画期的なできごとがありました。日産栃木工場が町内で操業を開始したのです。

 

○日産自動車は、昭和8年(1933)に設立された日本を代表する自動車会社の1つで、その技術力の高さから「技術の日産」として親しまれてきました。生産台数は昭和40年3月には月間35000台、翌年3月には44000台、さらに43年12月には10万台とする計画がたてられました。

                                    
○一方このころの栃木県は、広大な平野と水利に恵まれてはいましたが、やはり人口流出が激しく、工業化による農業県からの脱却を図るため、積極的に企業誘致を進めていました。

 

○日産は、昭和40年(1965)ごろには、座間、追浜、横浜(以上神奈川県)、吉原(静岡県)の4工場体制の確立と拡充を急いでいましたが、上記のようなさらなる生産能力の増強を図るため、新工場の建設が必要となっていました。既に昭和39年には上三川町内に現在の栃木工場用地を取得し、43年3月に起工式が行われました。これは本県初の大企業進出でした。

周辺の歴史 その18

17 日産栃木工場と上三川町-その2-
 
○上三川町にできた日産栃木工場では、昭和43年(1968)にアルミと鉄の鋳造、翌年には車軸の機械加工・組立を開始しました。そして同46年、組立工場の完成にともない、車両の最終組立までを行う一貫生産体制を確立し、さらに同48年(1973)にはテストコースも完成しました。

○敷地面積は、日産の国内工場では最大の約2922ha(東京ドーム約63個分)を誇り、従業員数は昨年6月時点で約5500名、年間生産台数は約25万台、シーマやフェアレディZなどの高級車、スポーツカーを生産しています。

○さて、これほどの大工場ができたことにより、上三川町の人口は増加し始め、工場ができた昭和43年には17000人ほどだったのが、5年後には35%増の23000人余りとなりました。

○そして日産が納める税金などにより、上三川町の財政状況も大きく好転しました。具体的にいうと、昭和43年度の当初予算は2億2600万円ほどでしたが、わずか2年後には3倍近い6億2584万円に跳ね上がり、同47年度には上三川町はついに地方交付税不交付団体となったのです。

○上三川町では、これにより、それまで他の県内市町村に比べてやや見劣りしていた公共投資を積極的に進め、町内小・中学校施設の新設・増設などにもこれがあてられたのです。

周辺の歴史 その19

19 上三川高校の創立-その1-
 
○昭和50年代に入ると、日本は第二次ベビーブームの影響で中学校卒業生の数が急増し、既に昭和49年(1974)には県議会でも高校増設問題がとりあげられていました。そして同51年度から61年度にかけて、12校の県立高校が開設されましたが、本校もそのうちの一校だったのです。

○一方、こうした県全体の動きとは別に、上三川町でも日産栃木工場が操業を開始し、人口が急増し始めた昭和43年(1968)ごろから新設高校を設置してほしい、との要望を県に行っていましたが、実現には至らない状況が続いていました。

○そうした中で、前述したような県の動きが見られたため、昭和56年(1981)8月、上三川町長を会長とする「県立上三川高等学校誘致促進期成同盟会」という組織が設立されたのです。同会は、町の教育環境の充実、地域文化の向上、保護者の経済的負担の軽減を訴え、県庁及び県議会、教育委員会などに積極的な働きかけを行いました。

○学校をたてる場所については、当時特に下都賀地区に高校が不足しているという事情もあって、はじめ小山市卒島地区が候補地となりましたが、問題が起こり中止となりました。その後、昭和57年5月、上三川町多功地区に高校を新設することが正式決定されたのです。

○県内にある高校は、その具体的な事情は実にさまざまですが、どの学校も地域の熱い要望をうけて開設された点では同じであり、本校もまた例外ではありません。

周辺の歴史 その20

20 上三川高校の創立-その2-
 
○上三川高校は、昭和57年(1982)10月~翌年3月に用地造成工事、4月から校舎などの建築工事に着手し、昭和59年(1984)3月に完了、4月の開校を迎えることとなりました。なおこの間、古代の集落遺跡確認のための発掘調査が行われたことは、1で紹介しました。

○そしてこれと並行して昭和58年4月には開設準備室が石橋高校内に設置され、3名の教職員が業務にあたり、翌年1月から3月までは開校準備室と名称を変更し、5名の教職員でさまざまな準備を進めました。

○特に校訓については、当時他校にはほとんど見られなかった「愛する 勉める 創る 鍛える」という、動詞によるものとしました。これは、校訓に単なる理想や抽象概念による精神的支えを求めるのではなく、実践できる行動目標としての地位を与えたかったからでした。

○また校歌については、新設校の場合、第1回入学式には間に合わないことがふつうでしたが、初代校長成島行雄先生、教頭阿部昭彦先生は、何とか入学式で校歌斉唱、制服着用を実現させようと努力しました。その結果、校長自身が作詞、その知人で音楽家の坂本勉先生の作曲による校歌ができあがり、入学式の行われた格技場(まだ体育館はできていなかった)いっぱいに歌声が響き渡ったのでした(制服のほうも間に合った)。

○昭和59年(1984)4月6日、第1回入学式において成島校長は、歴史豊かな上三川の地に再び豊かな文化を21世紀へ向けて花開かせたい、との式辞を述べられました。【完】