文字
背景
行間
校長室より
宮城教育大学名誉教授の猪平眞理先生に御来校いただきました!
本校では、令和5年11月15日(水)に宮城教育大学名誉教授の 猪平 眞理 先生をお招きし、専門性向上研修会を開催しました。猪平先生は、全国視覚障害早期教育研究会名誉会長でもあり、幼児教育と視覚障害教育の第一人者でございます。当日は、関東甲信越地区の盲学校7校がオンラインで研修会に参加してくれましたが、猪平先生の名声と人気ぶりが伝わってまいります。
猪平先生は、朝早くから本校に足を運んでくださり、午前中は幼稚部の授業参観及び幼稚部保護者との懇談、午後は小学部の授業参観及び授業者への助言と、御指導を賜ることができました。そして、放課後に講演会をいう運びでしたが、一日を通して温かい眼差しと穏やかな表情で対応してくださいました。
放課後の講演会では、『視覚障害のある子どもの探求心の育みを大切にした早期からの支援』という演題のもと、「触知覚の育成には旺盛な探求心が必要」や「子どもの意欲的な学びを誘うためには安心できる状況が必要」、効率のよい視覚の使い方を体得する過程で「目と身体の協応も重要」などなど、目からうろことなる金言をたくさん頂戴しました。今回の研修によって、まだまだ猪平先生の足元にも及びませんが、子どもを見る視点に関して専門性を高めることができたと考えています。
再びの機会に、ぜひとも猪平先生の御指導を賜りたいと願っております。
サウンドテーブルテニスが生まれた足利盲学校
「サウンド・テーブル・テニス」というパラ・スポーツをご存じでしょうか?テーブル・テニスといえば卓球ですが、「サウンド」が頭に付くように、「音」という情報を活用しながら視覚障害者がプレイする卓球競技です。10月7日(土)には、本校を会場に第40回関東地区盲学校卓球大会も開催されました。
実は、このサウンド・テーブル・テニスは、本校の前身である私立足利盲学校(後に宇都宮市に移転し、栃木県立盲学校となる)にて、当時の沢田正好校長先生が考案されたスポーツなのです。資料によると足利盲学校が足利市本城2丁目から相生町に移転した昭和6(1931)年から1~2年の間に考案されたと思います。相生町の盲学校は敷地も広く、男子の間では相撲や駆け足など運動が盛んになっていたようですが、女子は見ているだけのことが多く、沢田校長はどうにかならないかと考えていたようです。そこで卓球台の縁に囲いを作り、ラケットでボールを打ってネットの下を転がし合うという卓球を考案し、「盲人用ピンポンを作ったからやってみないか。」と声を掛けたそうです。全盲、弱視、男子、女子に関係なく、ある程度の技術も必要だったことから、みんなが楽しく競技することができ、放課後には盛んに行われたそうです。昭和8(1933)年には、帝国盲教育研究会にて「盲人ピンポン」として発表されています。昭和40(1965)年に開催された第1回全国障害者スポーツ大会からは「盲人卓球」の名で正式種目となり、平成14年(2002)年からは「サウンド・テーブル・テニス」と改名し、現在に至ります。競技の特徴は下記のとおりです。
・卓球台は一般の卓球台と同じサイズですが、エンドラインには1.5㎝の高さがあるフレームが付いています。両サイドにもエンドラインから60㎝先のところまでフレーㇺが付いています。一定範囲内のスピードなら、ボールは卓球台から落下しません。
・ボールも一般のボールと同じ大きさですが、中に金属球が4粒入っていて転がると音が出る仕組みです。
・ラケットは一般のラケットのようですが、ラバーは貼りません。ボールにあたったときに、打音が出ます。
・ネットは、卓球台の面から4.2cmの隙間を空けて上に張ります。ボールはネットの下を通してラリーを続けることになります。
沢田校長先生の「多くの視覚障害者に運動を楽しんでもらいたい」という思いと工夫から生まれたサウンド・テーブル・テニス...。競技の普及に伴いルールと用具が確立し、競技名の改名を経てさらに発展を続けています。パラ・スポーツの先駆けとなるサウンド・テーブル・テニスが栃木県の盲学校から生まれたことを誇りに思います。
指切り地蔵
今回は、本校の幼児児童生徒を見守り続けて46年目を迎えている「指切り地蔵」を紹介します。お地蔵様は、昭和52(1977)年の秋に本校に赴かれ、昭和52年10月17日には贈呈式と除幕式が盛大に行われたそうです。現在は、幼小部棟昇降口にたたずみ、子どもたちを見守っておられます。
作者は、大田原市出身の彫刻家、関谷 充 氏(1903~1983)です。
関谷先生は、昭和49(1974)年2月、本校創立65周年並びに新校舎落成記念式典に合わせて、当時の青木直明校長先生からの依頼により記念講演をしてくださいました。その時に、盲学校の子どもたちが作品に触れられるようにと動物やその他さまざまな彫刻を持参してくださいました。そして、講演後に彫刻作品に触れて喜ぶ子どもたちの姿に大いに感動され、「記念に何か私の作品を贈りましょう!」と約束してくださったそうです。
3年後の贈呈式当日には、関谷先生からこんなお話があったそうです。
「約束はいつも心から離れませんでしたが、構想を練るのにたいへん手間取ってしましました。ある日、ふと別れ際にこどもたちと握手したぬくもりが甦り、約束したのだから『指切り地蔵』が良いのではないかと思いつきました。盲学校の子どもたちが、自由に顔をなでたり、お地蔵様と指切りをして遊べるようにと考えました。そして、私の孫をモデルにして、この120㎝の等身大の像を作りました。皆さんは、このお地蔵さんと仲良く遊んで大事にしてください。」
関谷先生は、静かな口調でお話ししたそうですが、盲学校の子どもたちへの深い愛情と限りないヒューマニズムが宿っていたそうです。
「指切りげんまん」と言いたげに、今も右手の小指を差し出し、子どもたちをとの触れ合いを待ってくれているお地蔵様・・・。
今や、本校の風景に溶け込んでいるお地蔵様ですが、本校にとっては、心温まるエピソードであり、忘れてはならない歴史だと思います。これからも関谷先生の思いとともに、大切にしてまいります。
今日も優しくたたずむお地蔵様。よく見ると頭頂部と小指のあたりは、明るく変色しています。頭をなでられたり、指切りしたり。お地蔵様にもたくさんの思い出があることでしょう。