2023年3月の記事一覧

周辺の歴史 その11

11 宇都宮氏の改易と上三川・多功氏
 
○天正10年代に入り、小田原北条氏による下野侵攻は、いよいよ激しさをましていきました。しかし、同じころ畿内で急速に台頭、全国の有力大名を次々と従えていった羽柴(豊臣)秀吉が北条氏と対立しました。そして天正18年(1590)、秀吉は北条氏を討つために出陣し、この時関東・東北の多くの大名たちは秀吉に従いました。下野の宇都宮氏もそのうちの一人です。


○当主宇都宮国綱は、同盟者である常陸の佐竹義宣(よしのぶ)とともに、小田原付近まで来た秀吉と面会していますが、この時、宇都宮一族で家臣の上三川氏、多功氏も従い、秀吉に対しそれぞれ馬一頭を献上しています。


○ところで上三川城は、一般には室町時代前期から宇都宮一族横田氏の分家である今泉氏が城主となったとされています。しかし、信頼できる古文書によれば、天正18年当時の上三川城主は「上三川左衛門督」であり、今泉氏はこのころ宇都宮国綱の側近として活動しているのです。


○天下統一を成し遂げた秀吉に従う大名として再出発した宇都宮国綱は、これを機に領内諸城主の人事を刷新しました。上三川氏はこの時、今泉氏と城主を交替させられた可能性があります。


○慶長2年(1597)10月、宇都宮氏は秀吉から突如改易されます。これにともない上三川氏、多功氏は、他の一族・家臣とともに没落しました。この後、上三川氏については不明ですが、今泉氏の一部は横田郷兵庫塚(宇都宮市)に逃げ、そこで農民になったとの伝承があり、また多功氏は伊予国(愛媛県)今治城主松平氏に仕えたようです。

周辺の歴史 その12

12 江戸時代の多功村
 
○上三川高校がある多功は、江戸時代には多功村と呼ばれていました。一般に江戸時代の村は、現在の大字程度の大きさでした。支配者は、初め宇都宮藩でしたが、17世紀後半には旗本3氏の相給(あいきゅう、1つの村に複数の領主がいること。ただし領主が実際に村に住んで支配したわけではなく、支給される年貢米がとれる村、という関係のみ)、幕末段階では幕府、下総関宿藩、旗本3氏の相給と、めまぐるしい変遷がありました。もっとも、こうしたことは多功村に限ったことではありません。天保年間(1840年ごろ)の家数は、66軒でした。


○ところで多功村は純粋な農村ではなく、多功宿と呼ばれる宿場がありました。日光道中のバイパスの役目をはたした日光道中東通り(日光東往還、多功道ともいう)が通っていたからです。現在の県道146号線がその道に相当し、これと日光西街道との交差点付近が多功宿の中心地区だったと推測されます。近くにあるバス停「宿多功」や、本陣(大名や幕府役人などが宿泊)兼問屋をつとめた谷中家の門構えなどが、わずかに往事をしのばせてくれます。

周辺の歴史 その13

13 田村仁左衛門吉茂と『農業自得』-その1-
 
○江戸時代中期、8代将軍吉宗のころから、下野の農業は極度の不振におちいりました。しかもこれに年貢の増徴、商品経済の発達による諸物価の値上がりと、それにともなう米価の値下がりなど、農業経営に不利な条件がいくつも重なります。


○さらに宝暦年間(1751~64)以降、冷害や風水害による凶作が連続したため、農業の不振に拍車がかかり、その結果出稼ぎや欠落(かけおち、家を出てしまうこと)、病死などで農家がつぶれ、農村の衰えが激しくなっていったのです。


○しかしその一方で、こうした状況に危機感をもち、農業技術を改良して農村の復興を図ろうとする人々もあらわれました。その一人が、下蒲生村(今の上三川町下蒲生)の名主田村仁左衛門吉茂(たむらにざえもんよししげ)でした。


○田村家はもともと村内で最も豊かな農家でしたが、18世紀なかばには経営に行き詰まり、一時は破産状態にまでおちいりました。

 

○寛政2年(1790)に生まれた吉茂は、幼いころは勉学に必ずしも熱心ではありませんでしたが、父吉茂とともにこうした危機的状況から脱するために、農業に励んでいきました。そして、この経験の中から、やがて独自の農法を見いだしていったのです(次回へ続く)。

周辺の歴史 その14

14 田村仁左衛門吉茂と『農業自得』-その2-
 
○田村仁左衛門吉茂は、当時常識とされていた、苗代にまく種籾(たねもみ)の量や、田植えの際の一株の苗数に疑問をもっていました。そこで、父吉昌と親子2代にわたる継続的な実験を行いました。その際、吉茂は数年分の作付け状況を一目で同時に比較・対 照できる独自のノートを作成しています。分析の結果、いずれも従来言われていた量よりはるかに少ない方が、収穫量が増大したことが判明したのです。


○また吉茂は、畑作についても技術改良を施し、いろいろな種類の作物をどのような順番でつくれば効果的か、病害虫を引き起こさないためにはどうすればよいか、などについての工夫を重ねました。こうした努力により、天保の飢饉(天保4~7、1833~36年)の際にも下蒲生村では、最小限の被害に食い止めることができたそうです。


○さて吉茂は、こうした成果をまとめるべく執筆にとりかかり、天保12年(1841)にはできあがりました。これが、ちょうどその時、江戸から故郷の秋田へ帰る途中、下野に滞在した平田篤胤(ひらたあつたね、江戸後期の代表的な国学者の一人)の目にとまりました。篤胤は「この本の内容は、すべて百姓の守りとなるべき教えである」とほめたたえ、自ら書名を『農業自得』と名付け、吉茂に出版を勧めたのです。


○これ以後も吉茂は、明治10年(1877)に亡くなるまで多くの農書、教訓書を執筆しました。それらは、近代日本の科学的な農業技術改良の先駆ともいえる、注目すべき内容だったのです。

周辺の歴史 その15

その15  「土方歳三(ひじかたとしぞう)と上三川」
 
○皆さんは、新撰組の副長だった土方歳三が上三川の地に来ていたことを知っていましたか。
 
○幕末維新期、下野国内各地では新政府軍と旧幕府軍との戦いが繰り広げられました。慶応 4・明治元年(1868)4月、新政府軍は江戸城をおさえましたが、なお戦いを続けようとした旧幕府軍の一部は、徳川家の聖地である日光をめざし、二手に分かれて北進を始めます。
 
○このうち前軍を率いたのが、土方でした。土方らは現在の千葉県市川市を出発し、 利根川、さらには鬼怒川の東岸沿いに進みました。そして下妻藩や下館藩に出陣を求めましたが、十分な協力が得られず、そのまま4月18日には下野に入りました。
 
○土方らは翌日、下野における新政府軍側の一大拠点となっていた宇都宮城を攻略することを決め、この日は満福寺(上三川町東蓼(たで)沼(ぬま)、本郷小学校のすぐ東)に宿営したのです。

○そして翌19日朝、たまたま捕らえた黒羽藩(新政府方)の偵察兵3名を軍神への手向(たむ)けとして寺の門前で処刑した後、宇都宮へ向け出陣しました。
 
○戦いは、最新式の軍隊だった土方軍の圧倒的勝利に終わり、宇都宮城は旧幕府方の手におちましたが、焼け方があまりにもひどかったため、土方らはいったん満福寺に戻りました。
 
○敗戦の知らせを聞いた新政府方は、江戸から多くの援軍を送り、結局4月23日に土方らは敗れて宇都宮城を放棄し(この時の戦いで土方は足を負傷)、日光方面へ逃げていったのです。  
   

周辺の歴史 その16

16 上三川町ができるまで
 
○明治維新後、日本の地方制度は何度かの変更を経て、明治21年(1888)に市制・町村制が制定されました(翌年施行)。これは明治憲法制定に備え、地方自治制度の確立が急がれたためにとられた施策でした。

 

○この改革によって、それまでの小規模だった町や村はまとめられましたが、栃木県の場合、109町、1148村だったのが26町、145村となったのです。現在の上三川町域でみると、23の村が、上三川村、本郷村、多功村(後に明治村)の3村に統合されました。

 

○この3村の村名はどのように決められたのでしょうか。まず上三川村については、まとめられたもとの7村のうち、最も大きな村の名前がやはり上三川村だったため、それがそのまま使われました。

 

○ところが本郷村は、まとめられた8つの村のいずれの名前でもありません。町村制では、特に大きな村がない場合、住民感情を考慮して関係者が納得するような村名とすること、と定められていました。はじめ8村の中の上郷村とする案が出ましたが、反対が多くてまとまらず、結局8村すべてにあった、「本田」という地名の「本」と、「上郷」の「郷」を組み合わせて「本郷」としたのでした。

 

○さらに多功(明治)村は、はじめ多功宿の主張でいったん多功村に決まったのですが、他の7村が反対し、折り合いがつかなかったため、当時の元号をとって明治村としたのです。

 

○つまり本郷と明治という村名は、江戸時代にはなかった地名というわけです。なお、これら3村のうち上三川村は明治26年(1893)に上三川町となり、戦後の昭和30年(1955)、町村合併促進法により上三川町、本郷村、明治村が合併し、現在の上三川町が誕生しました(3つの地名は町内の中学校の名前として残っています)。                                    

周辺の歴史 その17

17 日産栃木工場と上三川町-その1-
 
○昭和30年(1955)、合併によって新上三川町が発足した時点では、その人口は約19000人(ちなみに現在は約31000人)でした。このころ日本は高度成長期に入り、人口の都市への集中が進んでいました。上三川町でも勤労青少年の転出者がふえ、それにともなって毎年人口は減少し、昭和43年(1968)には約17000人あまりにまで落ち込んだのです。いわゆる過疎化の傾向が強まっていました。

 

○ところが同じ年に、上三川町にとって画期的なできごとがありました。日産栃木工場が町内で操業を開始したのです。

 

○日産自動車は、昭和8年(1933)に設立された日本を代表する自動車会社の1つで、その技術力の高さから「技術の日産」として親しまれてきました。生産台数は昭和40年3月には月間35000台、翌年3月には44000台、さらに43年12月には10万台とする計画がたてられました。

                                    
○一方このころの栃木県は、広大な平野と水利に恵まれてはいましたが、やはり人口流出が激しく、工業化による農業県からの脱却を図るため、積極的に企業誘致を進めていました。

 

○日産は、昭和40年(1965)ごろには、座間、追浜、横浜(以上神奈川県)、吉原(静岡県)の4工場体制の確立と拡充を急いでいましたが、上記のようなさらなる生産能力の増強を図るため、新工場の建設が必要となっていました。既に昭和39年には上三川町内に現在の栃木工場用地を取得し、43年3月に起工式が行われました。これは本県初の大企業進出でした。

周辺の歴史 その18

17 日産栃木工場と上三川町-その2-
 
○上三川町にできた日産栃木工場では、昭和43年(1968)にアルミと鉄の鋳造、翌年には車軸の機械加工・組立を開始しました。そして同46年、組立工場の完成にともない、車両の最終組立までを行う一貫生産体制を確立し、さらに同48年(1973)にはテストコースも完成しました。

○敷地面積は、日産の国内工場では最大の約2922ha(東京ドーム約63個分)を誇り、従業員数は昨年6月時点で約5500名、年間生産台数は約25万台、シーマやフェアレディZなどの高級車、スポーツカーを生産しています。

○さて、これほどの大工場ができたことにより、上三川町の人口は増加し始め、工場ができた昭和43年には17000人ほどだったのが、5年後には35%増の23000人余りとなりました。

○そして日産が納める税金などにより、上三川町の財政状況も大きく好転しました。具体的にいうと、昭和43年度の当初予算は2億2600万円ほどでしたが、わずか2年後には3倍近い6億2584万円に跳ね上がり、同47年度には上三川町はついに地方交付税不交付団体となったのです。

○上三川町では、これにより、それまで他の県内市町村に比べてやや見劣りしていた公共投資を積極的に進め、町内小・中学校施設の新設・増設などにもこれがあてられたのです。

周辺の歴史 その19

19 上三川高校の創立-その1-
 
○昭和50年代に入ると、日本は第二次ベビーブームの影響で中学校卒業生の数が急増し、既に昭和49年(1974)には県議会でも高校増設問題がとりあげられていました。そして同51年度から61年度にかけて、12校の県立高校が開設されましたが、本校もそのうちの一校だったのです。

○一方、こうした県全体の動きとは別に、上三川町でも日産栃木工場が操業を開始し、人口が急増し始めた昭和43年(1968)ごろから新設高校を設置してほしい、との要望を県に行っていましたが、実現には至らない状況が続いていました。

○そうした中で、前述したような県の動きが見られたため、昭和56年(1981)8月、上三川町長を会長とする「県立上三川高等学校誘致促進期成同盟会」という組織が設立されたのです。同会は、町の教育環境の充実、地域文化の向上、保護者の経済的負担の軽減を訴え、県庁及び県議会、教育委員会などに積極的な働きかけを行いました。

○学校をたてる場所については、当時特に下都賀地区に高校が不足しているという事情もあって、はじめ小山市卒島地区が候補地となりましたが、問題が起こり中止となりました。その後、昭和57年5月、上三川町多功地区に高校を新設することが正式決定されたのです。

○県内にある高校は、その具体的な事情は実にさまざまですが、どの学校も地域の熱い要望をうけて開設された点では同じであり、本校もまた例外ではありません。

周辺の歴史 その20

20 上三川高校の創立-その2-
 
○上三川高校は、昭和57年(1982)10月~翌年3月に用地造成工事、4月から校舎などの建築工事に着手し、昭和59年(1984)3月に完了、4月の開校を迎えることとなりました。なおこの間、古代の集落遺跡確認のための発掘調査が行われたことは、1で紹介しました。

○そしてこれと並行して昭和58年4月には開設準備室が石橋高校内に設置され、3名の教職員が業務にあたり、翌年1月から3月までは開校準備室と名称を変更し、5名の教職員でさまざまな準備を進めました。

○特に校訓については、当時他校にはほとんど見られなかった「愛する 勉める 創る 鍛える」という、動詞によるものとしました。これは、校訓に単なる理想や抽象概念による精神的支えを求めるのではなく、実践できる行動目標としての地位を与えたかったからでした。

○また校歌については、新設校の場合、第1回入学式には間に合わないことがふつうでしたが、初代校長成島行雄先生、教頭阿部昭彦先生は、何とか入学式で校歌斉唱、制服着用を実現させようと努力しました。その結果、校長自身が作詞、その知人で音楽家の坂本勉先生の作曲による校歌ができあがり、入学式の行われた格技場(まだ体育館はできていなかった)いっぱいに歌声が響き渡ったのでした(制服のほうも間に合った)。

○昭和59年(1984)4月6日、第1回入学式において成島校長は、歴史豊かな上三川の地に再び豊かな文化を21世紀へ向けて花開かせたい、との式辞を述べられました。【完】