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今回は、校務日誌や勤労動員執務日誌について紹介いたします。
現存する最古の日誌はこちら↓
校務日誌昭和16年12月8日の記事欄に「第6時限 日米英宣戦布告ニ対シ戦勝祈願ヲ黒磯神社ニ参拝」とあります。
学校教育の現場にも戦争の影が暗い影を落としているのが伺えます。
校務日誌の昭和20年8月15日の学校事項重要欄には、
「正午玉音放送」と書かれてあります。
こちらは勤労動員執務日誌↓
こちらにも同じ8月15日、終戦の日記事欄には、
「後十二時零分ヨリ池端ニヲイテ聖旨玉音ヲ拝聴シ感泣(原文のまま)トクル能ハズ」と記載されています。
この日誌は、実践女学校時代に当時の古河電気株式会社日光電気精銅所に学徒動員がかかり、
その引率をしていた教員が書いたものになります。宿舎は金谷ホテルの従業員用の部屋だったそうです。
最大で57名の生徒が赴いた学徒動員。
令和の今、平穏な学校生活が送ることができている幸せを、今一度、再確認しなくてはなりませんね。
昨日の校章に続き、本日は校旗の歴史です。
こちらは実践女学校の校旗。昭和5年(1930)に樹立されました。校旗の中央部分は校章です。
大正14年制定の校章付きバックルの意匠を使用し、中心部分に刺繍で「黒女」と表示してあります。
こちらが黒磯高等学校最初の校旗です。昭和22年(1984)の開校時から昭和41年(1966)まで使用されました。
実践女学校時代の校旗そのままですが、中心部分の「黒女」の刺繍を削り取り、「黒高」と刺繍しなおしました。
そしてこちらが現行の校旗です。昭和42年(1968)に樹立。中心部分の図案は現在の校章です。
校旗の変遷を見るだけでも、本校の長い歴史を感じることができます。
今回は、校章の歴史を振り返ってみましょう。
黒磯実践女学校の校章は、大正14年に制定されました。
校章は、校章バックル付きベルトと校章バッジを作成する際に考案されました。
花弁にペン先(教養)とハサミ(技能)を用いて花の意匠とし、中央に「黒女」の文字を配置しました。
花の意匠は教養と技能を身に着けた「円満なる社会人」を表しているそうです。
下は、昭和24年4月1日に制定された黒磯高等学校の校章です。
左が男子、右が女子と、男女で違う校章でした。
男子の校章は菊の葉を図案化したもの、女子の校章は白菊を図案化したものです。
男子の校章は、昭和38年2月の改定により男女共通のものとなり、現在にいたります。
本校の校歌3番に「栄の白菊 薫れよ永遠に」との歌詞があります。
今はない女子の校章ですが、校歌の3番の歌詞とリンクしていたのでしょうか?
とても素敵な校章だと思います。
本校の応接室に飾られているこちら↓
今回ご紹介するのは、一番右側にある上棟板です。
上棟板とは、
建物の上棟の際に、建築物名、工事の由緒、年月日、建築費を出した人物、大工・鍛冶・屋根葺きの名前などを、
木札や板に書いて棟木などに打ち付けたものをいいます。
こちらの板にも、それらが書かれています。
棟梁や鳶・左官などといった職名と担当した職人さんのお名前がわかります。
裏面には、
「大正15年1月23日上棟式」
上棟式の日付けが書かれてあります。
当時の黒磯町長や校長のお名前も書かれてあります。
おおよそ100年前の上棟板にもかかわらず、とてもきれいな状態で保管されていたことに驚きです。
表面に書かれてある「天長地久(てんちょうちきゅう)」とは、
天地の存在は永遠であること。
天地が永久であるように、物事がいつまでも続くことのたとえ、だそうです。
当時の本校舎は残念ながら現存はしておりませんが、
創立当初の熱い想いは、
100年後の今でもしっかりと引き継いでおります!
本校に現存している、もっとも古い校印。
それは「黒磯町立裁縫補習女学校」の校印です。
本校は、初めは現在の黒磯小学校にあった黒磯裁縫補習学校を仮校舎にしていました。
開校時、校長先生含め職員は9名、生徒は63名だったそうです。
約100年前の校印ですが、
令和の現在でも、きれいな形で残っていることに感動しますね。
黒磯高校 校歌
澄みわたる 青空に
なびく白絹 夢よぶ噴煙
叡智の瞳 集めて仰ぐ
那須は清き山 情熱の山
ここに窓あり 黒磯高校
希望みなぎる われらが母校
風駛り 霰降る
冬の広野も 愛する大地
自律の気風 こぞりて拓く
那須は未来ある 開拓の原
明日の文化のさきがけつくる
意気と純情 われらが胸に
雲はるか 花はるか
流す那珂川 目指すはいずこ
みどりの春も 紅葉の秋も
那須はあたたかき 平和の泉
ここに苑あり 黒磯高校
栄の白菊 薫れよ永遠に