歴史散歩 by 教頭

歴史散歩9 「校内花壇コンクール」

昭和30年航空写真 昭和30年の航空写真である。真岡女子高の北側の、現在は赤十字病院敷地となっている場所にあるのは専売公社(JT)である。校地拡張前なので、グランドが今とは違い東西に細長い形をしている。
 さて、この写真ではよく見えないかも知れないが、当時は校内花壇コンクールが盛んに開催されていた。このMOJOを描いている生徒達は、真岡農業高校(現・真岡北陵高校)まで花苗を頼みに行ったりして、校舎と校舎の間の土地を耕し、様々な花を植えて、その美しさや植栽の技術をクラス対抗で競ったそうである。
 本校の歴史を振り返っていつも思うのは、この桜が丘の土地がいかに愛されたかということである。この年まで寄宿舎があり学校に住んでいた生徒もいたのだから、本校は文字通り生活の場でもあった。その時代と今とでは愛着の度合いも違うかも知れないと思っていたが、今年も美化委員会の生徒達が卒業式・入学式のシーズンに向けてパンジーを植えてくれたのを見ると、「いやいや心は同じだ」と思えてくる。市松模様に美しくパンジーを植えた生徒達は、昔の生徒達と同じく花とこの土地に思いを寄せてくれているのであろう。なお、今年の花苗も、真岡北陵高校の生徒達が丹精してくれたものである。

歴史散歩 「真女高校歌」

校歌 創立記念関連行事で印象的な場面は数々あったが、東京ユニバーサル・フィルハーモニーによる記念演奏会で「校歌」が演奏され、参会者全員で歌った場面も忘れがたい。サプライズ演奏であったが、在校生や教職員は勿論のこと、同窓会やPTAの皆さんも立ち上がり、楽しそうに歌われたのが印象的だった。
 本校の校歌は昭和3年1月に制定され、以来80年以上も歌い継がれてきた。旧制中学や高等女学校の多くが太平洋戦争終結後の社会変革のために校歌の見直しをした中で、本校は若干の見直しはしたものの大きな変更の必要が無かった。従って、高等女学校時代の生徒だった先輩達も、女子高校となってからの生徒も声を揃えて歌うことが出来るのである。その精神は「いざもろともに学ばなむ」に集約されている。「さあ、いっしょに学ぼう」と、本校に集う生徒達はお互いに呼びかけあって学んできた。現在も「朝の学習」のために放送部員達が早朝の校内放送をしてくれているが、彼女達が選んだアナウンスの言葉は「さあ、勉強しましょう」というものである。それを聞くと校歌もだぶって響いてくる気がする。「いざもろともに学ばなむ」こそ、一世紀を貫く本校の基本精神なのである。

歴史散歩7 逞しい女学生達

歴史散歩7 逞しい女学生達 本校は明治44年に創立され、大正4年に現在地に移り新校舎が落成した。この写真は落成当時のもので、正門が南側にあり、現在より校庭が狭いことがわかる。
 目を引かれるのは、校庭と地続きで校舎の前に広がる田畑である。このような光景の中にいたからなのか、当時の女学生達は農業に対して現在よりずっと親しみと実践能力を持っていたようである。昭和の初め頃の本校には、「家政部(後に園芸部)」という部活動があり、草花や蔬菜の園芸に励んでいた。校庭の一部のほか、約一反歩の畑地を借りて、根菜(馬鈴薯、大根)・葉菜(白菜、菠薐草)・果菜(インゲン、茄子、大豆)等を栽培し、養蜂をし、羊や兎や鶏を飼育し、ヘチマからヘチマ水を作り、温室でバナナやマンゴーの栽培(昭和6年頃)までしている。部活動ばかりではなく、各クラスでも真岡農学校から蚕2千匹を譲り受け、養蚕をしていた(昭和8年頃)。ペンを握っていた手で放課後は鍬を取り、その実りをバザーで販売し校友会益金を作ったとは、何と逞しい乙女達であることか。
 朝は海老茶色の袴に桜の徽章のベルトをきりりと締めて登校し、学業に励み、放課後は畑を耕していたことを想像すると、この写真からも乙女達のエネルギーが照射してくるようである。

歴史散歩6 ナイチンゲール達

歴史散歩6 ナイチンゲール達 今年度、真女高は創立百周年を迎え、同窓生の皆様をはじめとする様々な方々の御支援を頂きつつ記念事業を実施した。近隣の病院など医療の世界で活躍されているOGの皆様からも、「真女高の卒業生ですから少し協力させてください」と温かいお言葉をいただいた。
 本校では昭和50年4月1日に衛生看護科が開設され、平成16年4月1日に閉科となるまで多くの看護師が育っていった。往時の「戴帽式」は、厳粛な中にも大変感動的なものだったそうだ。生徒達がろうそくの灯を寄せ合い、涙を浮かべながら立派な看護師となることを誓ったという。その雰囲気はこの写真からも充分に感じることができるように思う。ここに集った乙女達も、今は社会の中堅として県内外の医療現場で活躍しておられることだろう。
 現在も本校では、希望する進学先として医療看護系を挙げる生徒がかなり多い。それは、この乙女達の優しくも強い精神が受け継がれているからかも知れない。
 写真の乙女達の視線の先にあったナイチンゲール像は、今もちゃんと保存されている。

歴史散歩5 強歩大会

強歩大会 これは昭和40年代の「強歩大会」の写真である。ジャージが違うせいか、現在の生徒より大人っぽいように見える。これから伊許山(益子町)か、井頭公園まで歩くところなのだろう、みんなきりっと引き締まった顔をしている。いずれも片道10キロ近い道のりである。
 本校には「歩く」伝統があるようだ。開校当時の修学旅行は、真岡から宇都宮まで20キロ近い道を歩いて(下駄履き、袴姿で!)、日光線に乗り日光参拝をしている。また、徒歩ではないが昭和17年には日光方面に「自転車行軍」をしている。午前6時に本校を出発し、午後1時に日光清滝に到着しているのだから、当時の女学生達の健脚ぶりには驚く。さらに、戦中の食糧事情の悪い中で鬼怒川まで歩き建物の土台にするための石を背負って戻ることもしている。さぞ大変だったろうが、女学生達はしっかりと歩き通したのだ。(このことは西門近くの「桜下聴石の碑」に刻まれ、石垣の一部が残されている。)こうして振り返ると、山を歩くワンダーフォーゲル部をはじめ本校の部活動が強さを誇るのも、伝統に支えられていることが感じられるのである。

歴史散歩4 高等女学校校旗

高等女学校校旗 創立百周年事業の一環として、真岡高等女学校校旗の額装も行った。
 紫色の地に、重厚な刺繍がほどこされた金色を基調とする校章が輝き、周囲も金色の房で飾られている。左隅に栃木県立真岡高等女学校と校名が刺繍されている。
 一見して気づくのは、この校旗が非常に新しいことである。もちろん、額装に当たり多少の補修は施されているのだが、ほとんど色あせもなく、特に刺繍の色鮮やかなことは驚くばかりである。校史を省みると、昭和4年11月6日に「校旗樹立式」が行われている。それから、二十年近く「校旗」として活躍したはずであるのに、こうも美しいことから、大切に大切に受け継がれてきたことがよく分かる。この校旗の額は、記念式典当日に会場ロビーに飾られ、女学校OBの皆さんをはじめ、来客の皆様の目を楽しませてくれた。(現在は渉外部室に展示してある。)

歴史散歩3 創立百周年の大合唱

創立百周年の大合唱 出来事の多い2011年であるが、本校に取ってはやはり創立百周年の年である。 創立百周年記念式典の中でも感動的なシーンは幾つもあったが、記念演奏会のアンコールも掉尾を飾るにふさわしい感動的なものとなった。演奏して下さった東京ユニヴァーサル・フィルハーモニーの皆さんが、アンコールに応え「荒城の月」のほか、本校の「校歌」をサプライズで演奏されたのだ。
 皆さんもご存じの通り校歌は昭和3年1月に制定され、多くの学校が戦後に改訂する中で、本校ではずっと歌い継がれている。だから、「校歌」は生徒・教職員は勿論のこと、同窓会の皆様方も歌うことができる。「校歌」の演奏が始まると、驚きつつ同窓会の方達も起立され会場全員、80歳代から十代までの千人での大合唱となった。実に実に感動的なフィナーレであった。

歴史散歩1 「東日本大震災」平成23年3月11日(金)当日

化学室 昨年度は校内施設などを巡り「校内散歩」を書かせていただいた。今年度は真女高100年の歴史の中を散歩してみたいと思う。
 まず、3月11日について記憶の薄れないうちに書いておきたい。あの日は、上天気で、高校入試の合格発表日であった。午前10時に東昇降口の上に合格者の受検番号が掲示され、見上げる受検生や保護者から歓声が上がり、職員玄関前では合格者に書類の手交が行われたが、昼前には一段落した。
 また在校生の多くの者に取っては3月4日(金)以来、1週間ぶりの登校日であった。6時間目の授業が始まって約30分後、巨大地震が起きた。「初めはいつもの小さな地震だろうと思った。しかし、その長さと揺れの大きさは自分が今までに経験したことのないすさまじいものだった。化学の授業で使っていた器具があちこちに飛び散り、急いで机の下に潜った。とても怖かった。」(現3年Aさん)
 すぐに全校生徒が校庭の芝生の上に避難を完了したが、その時はまだ、どこが震源か、どの程度の規模の地震なのか把握ができないままだった。

歴史散歩2 「東日本大震災」平成23年3月11日(金)日暮れ

廊下 大地震と同時に停電が発生したので、ハンドマイクを使って芝生の上で点呼をし、生徒全員の無事が確認できた。一人のけが人もおらず、本当に安堵したことであった。それから、余震の様子を見ながら生徒を少人数に分けて、校舎内に貴重品を取りに入らせることにした。電話は非常に繋がりにくくなっていたが、心配した保護者の皆さんも集まりはじめ、3月14日(月)は臨時休校とすることを決めて生徒に知らせ、家族との連絡確認のできた生徒から順次帰宅させた。日が落ちて寒くなってくる中、陸上部から寒さに震える生徒達にベンチコートが貸し出され、停電で暗いところにワンゲル部が非常用ライトを灯してくれ、非常食の飴などを配ってくれたのが心強いことであった。また保健室から毛布等を持ち出して配り、迎えを待つ生徒の待機場所は見通しのきく事務室にした。最後の生徒が迎えの方と帰宅したのは午後八時過ぎであった。
 宇都宮市内などと比べて、芳賀真岡地区の被害が大きいことを認識したのは、翌日になってからである。3月12日(土)も停電は続いていたが、教職員が何人か出勤して被害状況の確認と報告を行った。水道の配管がダメージを受け、真岡鐵道もストップしており、授業再開には時間がかかりそうであった。