益子焼
益子焼の歴史

創業時代

■創業者・大塚啓三郎(おおつかけいざぶろう)
益子での焼き物は古くからありましたが、現在の「益子焼」という形になったのは江戸時代(えどじだい)からです。

嘉永(かえい)6年(1853年)に大塚啓三郎という人が創始しました。
啓三郎は、文政(ぶんせい)11年(1828年)の生まれで、小さい頃に茨城県(いばらきけん)の笠間焼(かさまやき)をよく見ていました。
結婚して益子に来た後、益子の大津沢(おおつさわ)という場所に良い土を見つけ、農業のかたわら、陶芸をするようになりました。

まだ経験が乏しいため、田中長平(たなかちょうへい)という、笠間の陶工を誘い入れ、片腕となって働いてもらいました。
こういったいきさつで、益子焼は笠間焼の流れを組んでいるのです。

■郡奉行・三田称平(みたしょうへい)
江戸時代(えどじだい)、益子は郡奉行によって治められていました。
啓三郎が窯を築いてから2年後の安政(あんせい)2年(1855年)、郡奉行として三田称平が着任しました。
郡奉行には珍しく、贈答品を受け取らないなど、厳正公平な人柄でした。

その頃には、益子焼の窯は5、6箇所に増えていました。
しかし、農業の片手間だったので、どの窯もあまり成果が出ていませんでした。
窯を築き、仕事場を建て、陶土を掘り、燃料を買うにはお金が必要だったせいもあります。

そこで思い切って、啓三郎は資金を貸して欲しいと藩の役所にお願いしました。
三田称平はしっかりした人だったので、将来必ず伸びる産業だと考え、藩から資金の貸付をして、管理をすることにしました。

・焼きあがった物は、規則どおりに役所に納める
・焼き物で得た金銭で、貸付金をきちんと返す
・焼き物をごまかさない
・焼き物を勝手に売らない
・お金を借りたからには、本人も家族も一生懸命働く
・窯元は勝手に集まったり相談事をしてはいけない
・以前に借金をしていた人は、先にその人に返すべきなので、藩に相談する
・職人は元締めの言うことをきくこと。
言うことをきかない職人がいたら、役所に届ければ、処置をする。
逆に悪い元締めがいた場合は、職人から役所に届けること。同じく処置をする。
これに関して、自分達で集まって相談してはいけない。
・窯に火を入れる日と焼きあがる日を役所に届ける。
窯出しの予定が5日以上延びたら処罰する。
・役人が見回りにきても、仕事場の職人は仕事をしているだろうから挨拶せずとも良い。
家主が代表でお辞儀すればよい。
・年末年始の役人への贈り物は禁止する

このように大変厳しく、しかし、窯元の人達がうまく働けるように指導をしました。
このおかげで、益子焼は創業時代の苦境をうまく切り抜けることが出来ました。

職人の暮らし

創業当初は技術がないため、他の地域から高い賃金で職人を雇い入れなくてはなりませんでした。
そのため、職人は待遇が良く、良い暮らしをしていました。
工賃は出来高制で、半年か一年単位で支払われました。
その間、米などを現物支給し、給料を払うときに精算しました。

しかし、明治(めいじ)中期以降、みんな上手くなったため、待遇がだんだん悪くなり、生活もあまり良い暮らしではなくなってきました。

好調時代から低調時代

益子焼は主に関東地方(かんとうちほう)に出荷されました。
当時、関東地方の焼き物は笠間焼だけだったので、新しい益子の産業は当たりでした。
良い陶土があり、釉薬(ゆうやく)があり、燃料のある益子は、焼き物の条件によくあっていました。

啓三郎は、慶応(けいおう)2年(1855年)、藩の命令で村長になりました。
その後も益子焼を一生懸命発展させました。

ところが、売れ行きが良すぎて、粗製品(そせいひん)まで乱売したため、益子焼の信用が落ちてしまい、アメリカへの輸出も途絶えてしまいました。

そこで、明治36年10月、「益子陶器同業組合」が設立されました。
信用の回復に努めるために、みんなで協力しようと考えたのです。

信用回復のためには腕の良い職人を育てる必要もあります。
組合は「益子陶器伝習所」を設立しました。
大正(たいしょう)2年4月から町経営となり、研究と情報公開を重ね、発展に大きく貢献しました。

しかし、益子焼がよく売れたのは明治の末まででした。
その理由は、生活様式の変化でした。

大正くらいから燃料が木炭から石炭ガスに変わり、益子焼では高熱に耐えられないため、台所用品はアルミなどの金属にとって変わられました。
また、味噌も漉した(こした)味噌になり、すり鉢が要らなくなりました。
ツボやカメもガラスや金属に変わっていきました。

そこで東京(とうきょう)から東北(とうほく)や北海道(ほっかいどう)に売るようになりましたが、売上は低くなる一方で、大正9年には、8月の一ヶ月間、製造を中止したほどでした。

関東大震災(かんとうだいしんさい)とその後

このように売上が低調でしたが、大正12年9月1日の関東大震災で様子が一変しました。
台所の道具が全て壊れたため、突然需要が増え、作っても作っても間に合わないくらいになりました。

その後、大正13年、濱田庄司(はまだしょうじ)が益子に定住しました。
濱田は日本全土の焼き物を研究して、最後に益子を選びました。
土も釉薬も良く、昔ながらの製法が守られているからでした。
柳宗悦(やなぎむねよし)が濱田と民芸運動を提唱し、益子焼を民芸品として推奨したため、有名になりました。
そのおかげで、たくさんの作家が益子焼の民芸品を作るようになりました。

太平洋戦争(たいへいようせんそう)の時代には、金属がとられた代わりに、陶器が使われるようになりました。
益子焼は丈夫で安いのでたくさん売れました。
戦争中は窯の火が敵に見つからないように、ハラハラしながら焼いたそうです。

こうして、昔ながらの製法を守り続けながら発展していき、今日にいたっているのです。