日誌

2019年3月の記事一覧

光は東方より ~宇東高及び同附属中音楽部主催「EAST MUSIC CONCERT」~


 光は東方より・・・
 かつて、光り輝く文化の中心であった古代ローマでは、自らの文化の源が古代ギリシャ、あるいはさらに東方のエジプト、メソポタミアといったオリエント(=日出づる方角)にあると自覚していました。
 そして、光溢れる絵画を描こうとした19世紀フランスの印象派の画家たちは、世界の最も東端にある日本の浮世絵からインスピレーションを受けていました。
 古く中国でも、日出づる方角である「東」は、春を表す方角でもありました。
 「東」の生徒たちの奏でる音楽が、光溢れる爛漫の春を呼び寄せてくれますように。
      (3月24日 パンフレット 巻頭のご挨拶より)



 「フラクタル形状」との出会い


 先日、スーパーの野菜売り場で、不思議な野菜を見つけて、そのまましばらく見入ってしまいました。ロマネスコという野菜です。私はお料理では食べたことがあるのですが、野菜としての実物を見るのは初めてでした。ブロッコリーの白っぽいものといった感じで、カリフラワーに似ていますが、これが実に見事な「フラクタル形状」をしているのです。こんなに理想的なフラクタル形状を見たことはありません。ロマネスコを持ったまま野菜売り場に立ち尽くしていると変なおじさんだと思われかねませんので、買って帰り、家で茹でて食べました。
 さて、その「フラクタル形状」とは、部分と全体が相似形になっている形状を言います。部分と全体が相似形になっている、つまり、拡大しても縮小しても同じ形に見えるということです。
 ロマネスコの場合、白い小さな花が無数に集まって円錐状の突起になっていて、枝のようにくっついてできている野菜なのですが、そのひとつの円錐の枝をよく見ると、そこには、さらに小さな円錐状の突起が無数に付いているのです。
 では、どうしてロマネスコはそんな形をしているのでしょうか?・・・  <中略>
 螺旋と言えば、実はロマネスコの大きな円錐にも、小さな円錐もにも螺旋が隠されています。花が円錐状の枝になっていると言いましたが、その円錐を上から、(つまり頂点の方から)見ると、渦巻きが見えます。
 この、渦巻は、自然界にはたくさん発見することができます。例えば、・・・・   <中略>
 言いたかったのは、自然の中には、普段は気付かない不思議な現象や、目に見えない原理がたくさん隠れているということ、そして、意識を高くしていれば、そうした不思議に気付くことができるということです。
 <中略>
 平成の時代が終わるのも、もう間もなくです。平成の時代は大きな災害の多い時代でもありましたが、急速に人工知能や情報機器の発達した時代でもありました。IPS細胞の医療現場への実用化など生命科学も大きく発展しようとしています。平成の次の時代はどのような時代となるのでしょうか。
 その時代を担う皆さんが、新年度に向けて、そして次の新たな時代に向けて力強い一歩を踏み出せるように、一人一人が心を新たにして、意識を高く保ち、春休みを迎えてください。
                                              (修業式 講話より)


その一部(渦巻きを持つ円錐状の突起)を切り取っても同じ形

そのまた一部も同じ形。さらに同じ渦巻きを持つ円錐状の小さな突起が見える

金木犀と銀木犀 ~「ひむがし」より~

 金木犀と銀木犀                 若杉 俊明

 十月のあるよく晴れた日の朝、出勤すると、校庭が芳しい香りに満ちていることに気付いた。毎年この季節になると必ずどこかで巡り会うあの香りである。そのお陰で、校域全体が明るさを増しているようにも感じる。
 香りの主はすぐにわかった。本校の中庭の池のはたに立つ金木犀である。その堂々とした姿は、校長室からよく見える。まだ咲きはじめの黄金色の小さな花の群れが、つややかな常緑の広葉を背に黄金色に光っている。
 もし我々人類(ホモサピエンス)が、視覚優位の生物ではなく嗅覚優位の生物だったとしたら、日本人はおそらくこの季節に、この花の下で花見(花嗅ぎ?)の宴を開くであろう。
 金木犀は香る花の王である。
 数日の後、花は満開となったが、香りはむしろ「残り香」とでも言った方が良いくらいのかすかなものになっていた。金木犀は、咲きはじめに最も強く香るのかもしれない。
 しかし一方でその小さな花々は、いよいよ葉の緑とのコントラストを鮮明にして、秋の日差しを受けて生き生きと輝き続けていた。


 そして十一月の小雨降る日の夕方、学校から帰ろうとすると、暗がりの中からかすかに甘やかな香りがする。金木犀に似ているが、もっと葛の花などに近い、まろやかな香りである。どこか味覚を刺激されるかのような独特の香りに心惹かれた。
 夏から秋にかけて咲く葛であるはずはない。何の花の香りなのだろう。
 水銀灯の光を頼りに周囲を見回してみたが、それらしい樹は見当たらない。翌朝探索することにしてあきらめて帰宅の途についた。
 翌朝出勤すると、玄関のすぐ脇に、小さな白い花を無数に付けた樹が立っている。これだけの大樹でありながら今まで気にしたこともなく、これだけ花が開いた後でも今日までその開花に気付くことは無かった樹である。
 昨日の香りの主はこれではないかと思ったが、近づいてみても昨日ほどの香りを感じない。人間は視覚が制限される闇の中でないと嗅覚が鋭敏にらないためだろうか。それほどのかすかな香りだったのであろう。
 私は、周囲の人目をはばかりながら、一枝手折ってみた。鼻先に近づけてみるとまさに昨晩のあの香りである。
 その枝を図鑑と照らし合わせてみると、銀木犀であろうと思われる。一部の葉の周囲に柊(ヒイラギ)のような突起が付いているところからすれば同じモクセイ科の柊木犀、あるいは丸葉柊かもしれない。葉の色は黒ずんだ緑であり、柊や金木犀のような光沢を有していない。花だけではなく、葉も地味なのである。おそらく実を付けたとしても、その実は、クリスマスに飾られる柊の実のような鮮やかな朱などは含んでいないように想像された。
 しばらく観察を続けてみようと思い、ガラス瓶を探して手折った枝を活けてみた。顔を近づけて初めて感じる程度のかすかな香りは、その後もしばらく失われなかった。
 そして、数日後のある霧深い日の帰宅時である。玄関脇の銀木犀は、数日前と同じくらいにかすかに、しかし甘やかに、周囲の暗がりの中へとその香りを広げていた。


 金木犀のような在り方もある。
 銀木犀のような在り方もある。

                             (宇都宮東高等学校・同附属中学校生徒会誌『ひむがし』より)


    金木犀

  
  銀木犀(柊木犀、もしくは丸葉柊か)

三月の寒風の中 ~宇東水球部、始動~

 かつて国体で全国制覇した古豪、宇東水球部。
 梅の花が散り初めた弥生の月半ば、風はまだ冬の名残を留めていますが、もうプール掃除を初めていました。既に夏へ向かって始動しています。

一人一人にとっての黄金の釘 ~中学校卒業式~



 劫初(ごうしよ)よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金(こがね)の釘一つ打つ (与謝野晶子)


  誰もが高い建物や広い庭を造れるわけではない。でも、ただ、そこに住まわせてもらっているだけじゃない。自分もその「つくり営む」人間の一人である。自分は、(文学という美の殿堂に)たった一本の釘を打つことぐらいしかできない小さな存在かもしれないけれども、でもその一本は、紛れもない価値を持つ「黄金」の釘なのだ、という自負。それが与謝野晶子の思いでしょう。     <中略>
 高校の3年間は、一人一人の人生にとっての「殿堂」とそこに打つ「黄金の釘」が一体何なのかを見つける時間でもあるのだと思います。
 皆さんの高校生活に、そして未来に、「幸多かれ」と祈念し、卒業式に当たっての校長式辞といたします。
           (3月15日 宇都宮東高校附属中学校 卒業式式辞より)
  

梅花匂う春の日・・・高校合格発表

 3月12日、高校の合格発表がありました。本校の場合は、既に内定が通知されていましたが、合格者の皆さんは、合格者番号一覧の前で記念写真を撮り、喜びを改めて噛みしめ、そして、笑顔で書類を受領していました。
 皆さんの高校生活が、実り多きものとなりますように。
  

幽玄の舞い ~能楽教室~

  3月12日、ふれあい文化教室として能楽教室が開かれました。中学2年生にとっては、「鶴亀」を謡うのも、「羽衣」を舞うのも、おそらくは舞扇を手にするのすら初めての体験だったと思います。それでも生徒たちは、力強く、荘厳に謡い、静かに、滑るように、凜として舞っていました。

" Silence is not gold " ~English Camp at Windy Nasu~

 3月7日から9日の3日間、中学2年生は、英語漬けの3日間を過ごしました。プレゼンテーションの場面だけではなく、日常生活でも自然に英語が口に出るまで、生徒は英語に馴染んでいきました。
  私も、最終日のプレゼンテーションを見に、那須高原に上りました。生徒の工夫された表現と自信に満ちた態度、そして外国人講師の先生方への心遣いに胸を打たれました。

       

永久(とわ)に幸あり ~宇都宮東高等学校卒業式~

 近代細菌学の父パスツールは次のような言葉を言っています。
 「偶然は構えのある心にしか恵まれない」
 その「構え」が、出会いに気づくセンサーの感度を上げるはずです。幸運の神は、知的好奇心の旺盛な者、人生に対して誠実な者に好意的なはずなのです。
 「正しく 剛く 寛く」あろうと誠実に高校生活を送った皆さんの人生に、幸運な出会いがもたらされますように。そしてその出会いによって生み出された価値が、皆さん自身の人生と、皆さんを取り巻く人々や社会の未来に、永久(とわ)に幸(さち)をもたらすよう祈念して、式辞といたします。                                   (3月1日 卒業式 校長式辞より)