日誌

校長室より(New!)

3つのCを目指した探究の日々 ~iP-U修了式参列~

 4月7日、宇都宮大学の工学部キャンパスにあるアカデミアホールにて挙行された平成30年度のグローバルサイエンスキャンパス(iP-U)終了式に、本校生6名とともに参列しました。
 修了式に先立って実施されたポスターセッションでは、本校生も探究活動の成果を熱心に説明していました。
 
 修了証書の授与式では、本校の高校1年生(30年度本校附属中学校中学3年生)が代表として証書を授与され、宇都宮大学の石田学長と握手を交わしました。
 全員が、修了の証でもあるスカイブルーのリボンを首に掛け、とても誇らしげな表情でした。
 石田学長のご挨拶のお言葉の中にもあったように、一人一人が
 Challenge   挑戦
 Change      変化
 Contribution  貢献
に取り組んだ日々であったことがうかがえます。 

春季高校野球地区予選観戦記



 4月6日、本校野球部は1回戦の高根沢高校戦に臨みました。私も清原球場で行われたその試合を観戦しました。
 1回表に先制した本校でしたが、5回に逆転を喫し、最後はそのまま押し切られてしまいました。序盤と終盤が緊迫した守り合いだっただけに中盤の失点が悔やまれますが、選手たちにとってはこれもこの上なく貴重な経験になったと思います。
 ピンチでも声の掛け合いを忘れない明るいチームです。夏に向けて、今後の成長がとても楽しみです。

鵬(ほう)の視点 ~入学式式辞より~



 半世紀前、アメリカの宇宙船アポロ11号が、月面に到達したとき地球以外の天体に立った初めての人類がニール・アームストロング船長です。「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。」という言葉が有名ですが、その偉業が達成されたときの次ような言葉が残っています。
「平和を望む人々、探究心と好奇心を持って 未来を目指す人々、彼らを代表してここに立っていることを、とても光栄に思います。」
 もしかすると、「探究心と好奇心を持って未来を目指す人々」という 全人類的な視点は、別の天体からこの青い地球を眺める、という新たな視点の獲得から生まれたものなのかもしれません。皆さんの「探究心と好奇心」という知性の翼を、この宇都宮東高等学校、附属中学校で存分に育て欲しいと思います。
 さて、アポロ11号から一世紀前には、ジュール・ヴェルヌによる『月世界旅行』が刊行されました。さらに遡ること約三世紀。シラノ・ド・ベルジュラック作の『日月両世界旅行記』が刊行されました。
 さらに、遡ること二千年、中国の思想家「莊子」は、想像上の大鳥である「鵬(ほう)」について次のような予言的な言葉を残しています。
天の蒼蒼たるは其れ正色なるか。(天が青いのは空そのものの色なのだろうか。)
其れ遠くして至極する所なければか。(それともどこまでも果てるところが無いから青く見えるのか。)
其の下を視るや、亦是くの若くならんのみ。(九万里の彼方に舞い上がった鵬が、その視点から下を見るならば、地上は、空と同様に青く見えているに違いない。)
 どんな偉業も「想像すること」あるいは「夢見ること」無しには誕生しないものなのかもしれません。
 次の時代「令和」では、間違いなく人工知能(AI)や遺伝子工学などの先端科学が劇的に進化し、人類は次の一歩へと歩み出すでしょう。産業や生活が一変するだけではなく、そうした技術を使って人間が何を求めるべきなのか、あるいは、そもそも人間とは何者なのかという、本質的な問いが私たち突きつけられてくるでしょう。いずれにせよ、皆さんが将来専攻するであろう学問は、それが何であろうとも、人類の次の一歩につながっているはずです。宇都宮東高等学校、附属中学校で、自分自身の関わり方を探して欲しいと思います。
 アームストロング船長は、次のような言葉も残しています。「私たちが月に行くのは、『挑戦(チヤレンジ)する』ということが、人類の根元的な性質であるからだと思います。それは、人間の魂の中で 奥深くにある性質です。私たちは挑戦(チヤレンジ)をせずにはいられないのです。」
 この「挑戦(チヤレンジ)をせずにはいられない性質」もまた、皆さん一人一人の心に息づいているはずです。
 失敗をしないためには挑戦をしなければいいわけですが、自分ら挑戦すること無しに、成長や成功はもたらされません。特に、「学校」という空間は、「失敗することの許される場所」むしろ「チャレンジして失敗することが求められる場所」であるはずなのです。
                                      (平成31年4月5日 入学式式辞より)

春休み満開の桜の下 ~宇東高部活動風景~

 春休み、満開の桜の下、部活動にいそしむ生徒たちの姿がありました。
 中には、入学式前の附属中学校卒業生が高校生とともに活動をする、あるいは、部として附属中学校と高校が合同の練習をするなど、中高一貫校ならではの風景も見られました。

顧問の先生も一緒に走る(バドミントン部)

中・高合同で練習 中学生に球出しをする高校生(ソフトテニス部)

格技場にて猛稽古(中・高剣道部)

入るか?3ポイント(バスケットボール部)

ナイススパイク!(バレーボール部)

まずは入念にストレッチ(陸上競技部)

桜並木を背景に(サッカー部)

満開の桜の下、白球を追う(野球部)

桜並木に向かって打て!(附属中学野球部)

本番さながらに(弓道部)

心静かに筆を運ぶ(書道部)

コンサートが終わっても気を緩めません(音楽部(中))

光は東方より ~宇東高及び同附属中音楽部主催「EAST MUSIC CONCERT」~


 光は東方より・・・
 かつて、光り輝く文化の中心であった古代ローマでは、自らの文化の源が古代ギリシャ、あるいはさらに東方のエジプト、メソポタミアといったオリエント(=日出づる方角)にあると自覚していました。
 そして、光溢れる絵画を描こうとした19世紀フランスの印象派の画家たちは、世界の最も東端にある日本の浮世絵からインスピレーションを受けていました。
 古く中国でも、日出づる方角である「東」は、春を表す方角でもありました。
 「東」の生徒たちの奏でる音楽が、光溢れる爛漫の春を呼び寄せてくれますように。
      (3月24日 パンフレット 巻頭のご挨拶より)



 「フラクタル形状」との出会い


 先日、スーパーの野菜売り場で、不思議な野菜を見つけて、そのまましばらく見入ってしまいました。ロマネスコという野菜です。私はお料理では食べたことがあるのですが、野菜としての実物を見るのは初めてでした。ブロッコリーの白っぽいものといった感じで、カリフラワーに似ていますが、これが実に見事な「フラクタル形状」をしているのです。こんなに理想的なフラクタル形状を見たことはありません。ロマネスコを持ったまま野菜売り場に立ち尽くしていると変なおじさんだと思われかねませんので、買って帰り、家で茹でて食べました。
 さて、その「フラクタル形状」とは、部分と全体が相似形になっている形状を言います。部分と全体が相似形になっている、つまり、拡大しても縮小しても同じ形に見えるということです。
 ロマネスコの場合、白い小さな花が無数に集まって円錐状の突起になっていて、枝のようにくっついてできている野菜なのですが、そのひとつの円錐の枝をよく見ると、そこには、さらに小さな円錐状の突起が無数に付いているのです。
 では、どうしてロマネスコはそんな形をしているのでしょうか?・・・  <中略>
 螺旋と言えば、実はロマネスコの大きな円錐にも、小さな円錐もにも螺旋が隠されています。花が円錐状の枝になっていると言いましたが、その円錐を上から、(つまり頂点の方から)見ると、渦巻きが見えます。
 この、渦巻は、自然界にはたくさん発見することができます。例えば、・・・・   <中略>
 言いたかったのは、自然の中には、普段は気付かない不思議な現象や、目に見えない原理がたくさん隠れているということ、そして、意識を高くしていれば、そうした不思議に気付くことができるということです。
 <中略>
 平成の時代が終わるのも、もう間もなくです。平成の時代は大きな災害の多い時代でもありましたが、急速に人工知能や情報機器の発達した時代でもありました。IPS細胞の医療現場への実用化など生命科学も大きく発展しようとしています。平成の次の時代はどのような時代となるのでしょうか。
 その時代を担う皆さんが、新年度に向けて、そして次の新たな時代に向けて力強い一歩を踏み出せるように、一人一人が心を新たにして、意識を高く保ち、春休みを迎えてください。
                                              (修業式 講話より)


その一部(渦巻きを持つ円錐状の突起)を切り取っても同じ形

そのまた一部も同じ形。さらに同じ渦巻きを持つ円錐状の小さな突起が見える

金木犀と銀木犀 ~「ひむがし」より~

 金木犀と銀木犀                 若杉 俊明

 十月のあるよく晴れた日の朝、出勤すると、校庭が芳しい香りに満ちていることに気付いた。毎年この季節になると必ずどこかで巡り会うあの香りである。そのお陰で、校域全体が明るさを増しているようにも感じる。
 香りの主はすぐにわかった。本校の中庭の池のはたに立つ金木犀である。その堂々とした姿は、校長室からよく見える。まだ咲きはじめの黄金色の小さな花の群れが、つややかな常緑の広葉を背に黄金色に光っている。
 もし我々人類(ホモサピエンス)が、視覚優位の生物ではなく嗅覚優位の生物だったとしたら、日本人はおそらくこの季節に、この花の下で花見(花嗅ぎ?)の宴を開くであろう。
 金木犀は香る花の王である。
 数日の後、花は満開となったが、香りはむしろ「残り香」とでも言った方が良いくらいのかすかなものになっていた。金木犀は、咲きはじめに最も強く香るのかもしれない。
 しかし一方でその小さな花々は、いよいよ葉の緑とのコントラストを鮮明にして、秋の日差しを受けて生き生きと輝き続けていた。


 そして十一月の小雨降る日の夕方、学校から帰ろうとすると、暗がりの中からかすかに甘やかな香りがする。金木犀に似ているが、もっと葛の花などに近い、まろやかな香りである。どこか味覚を刺激されるかのような独特の香りに心惹かれた。
 夏から秋にかけて咲く葛であるはずはない。何の花の香りなのだろう。
 水銀灯の光を頼りに周囲を見回してみたが、それらしい樹は見当たらない。翌朝探索することにしてあきらめて帰宅の途についた。
 翌朝出勤すると、玄関のすぐ脇に、小さな白い花を無数に付けた樹が立っている。これだけの大樹でありながら今まで気にしたこともなく、これだけ花が開いた後でも今日までその開花に気付くことは無かった樹である。
 昨日の香りの主はこれではないかと思ったが、近づいてみても昨日ほどの香りを感じない。人間は視覚が制限される闇の中でないと嗅覚が鋭敏にらないためだろうか。それほどのかすかな香りだったのであろう。
 私は、周囲の人目をはばかりながら、一枝手折ってみた。鼻先に近づけてみるとまさに昨晩のあの香りである。
 その枝を図鑑と照らし合わせてみると、銀木犀であろうと思われる。一部の葉の周囲に柊(ヒイラギ)のような突起が付いているところからすれば同じモクセイ科の柊木犀、あるいは丸葉柊かもしれない。葉の色は黒ずんだ緑であり、柊や金木犀のような光沢を有していない。花だけではなく、葉も地味なのである。おそらく実を付けたとしても、その実は、クリスマスに飾られる柊の実のような鮮やかな朱などは含んでいないように想像された。
 しばらく観察を続けてみようと思い、ガラス瓶を探して手折った枝を活けてみた。顔を近づけて初めて感じる程度のかすかな香りは、その後もしばらく失われなかった。
 そして、数日後のある霧深い日の帰宅時である。玄関脇の銀木犀は、数日前と同じくらいにかすかに、しかし甘やかに、周囲の暗がりの中へとその香りを広げていた。


 金木犀のような在り方もある。
 銀木犀のような在り方もある。

                             (宇都宮東高等学校・同附属中学校生徒会誌『ひむがし』より)


    金木犀

  
  銀木犀(柊木犀、もしくは丸葉柊か)

三月の寒風の中 ~宇東水球部、始動~

 かつて国体で全国制覇した古豪、宇東水球部。
 梅の花が散り初めた弥生の月半ば、風はまだ冬の名残を留めていますが、もうプール掃除を初めていました。既に夏へ向かって始動しています。